『文藝春秋』の「美しい日本語」特輯(9‐21)

平成十四年九月『文藝春秋』は「美しい日本語」といふテーマで臨時増刊號を出した。百十六人の作家、評論家、歌人、隨筆家、學者等の日本語についての樣々な意見を伺ふことができるが、一人に割當てられた頁が少いために、殘念ながら深く掘下げられた意見は數少い。百十六人の「美しい日本語」「書き方」「話し方」についての見方や捉へ方を知るには便利だが、讀者が啓發されたり、認識を改めたりするまでには至らないだらう。 「美しい日本語」などはないと言ふ者もあれば、實例を擧げて、これが「美しい日本語」だと言ふ者もあり、實に區々であるが、現實に美しいと感じる表現なり話し方なりに魅了されることは誰しもあるに違ひない。それぞれ人によつて基準も條件も異なるが、だから「美しい日本語」などは存在しないとは言へまい。「美しい日本語」とはどのやうなものか、日本人として絶えず自らに問ふことを忘れてはなるまい。言葉の正しさ、言葉の美しさ、表現の美しさの解る人間、正しい日本語、美しい日本語を使へる人間を育てるのが國語教育ではないのか。以下、注目すべき意見として、
*(ヨーロッパ旅行をして)自分がいかに日本の古典を知らないかを痛感し、日本文化を知らぬことが、自分が本當の自分になりきれないでいる原因だと知った。(中野考次)
 *戰後五十餘年、日本語は知らぬ間に、まったく變質し、亂雜きわまりないものになり果ててしまった------カタカナ語の亂用が、本來の母國語の語彙をつぎつぎに消し去り、この國の傳統的な表現をいかに貧しくしつつあることか!(森本哲郎)
  *日本語再生の鍵は、縱書きの復活が握っている。(石川九楊)
*日本語を美しい言葉にするためには、汚いことば、いやらしい表現、譯の分からない言い方などを追放しなければならない。------美しい日本語は、話をする人、文章を書く人の心が美しくなくては生まれてこない。(鈴木孝夫)
*大學教授とか學者という肩書きで日本語の眞の美しさを葬り去る輩に無性に肚立たしさを覺える。(藤本義一)
*言葉遣いの貧富は、そのまま思考の貧富、感性の貧富となってあらわれる。(竹西寛子)
*歴史的かなづかひと正漢字にかへれ、といふのが私の提案である。(桶谷秀昭)
*ウィトゲンシュタインという有名な哲學者が、言葉の限界がその人の限界だというふうに言っています。(井上ひさし)
*俳句がある限り日本語は健在なり。(金子兜太)
*誰がどんな時にするにせよ、情念のまっすぐ傳わる言葉をいきいきと話すとき、言葉は美しい。(加島祥造)
*日本語くらい、變化と奧行とニュアンスに富む言葉はないのに、それをだいじにしない風潮がたかまっている。(伊藤桂一)
*なぜにかくもけぢめが失はれたのか。教育や躾のどこがいけなかつたのか。答へは簡單、「子供の個性尊重」などといふ戲言を言つて、世にけぢめや分があることを辨へさせなかつたからに過ぎない。------敬語や謙讓語をきちつと教へ込むゆとりすらない教育も愚かの一語に盡きよう。(福田逸)
*古い時代の美しい日本の文章を知らずして、いまの日常語の亂れを叱ったとしても、何ひとつ改善されなしないと思う。(宮尾登美子)
*私は義務教育については、かねてから讀み、書き、そろばん、話し方、この四つだけでいいという考えなんです。要するに國語と算數だけ。(山崎正和、對談)
*小中學校の國語の教科書はあの三、四倍厚くして、主として生徒が家で讀むものとする。註は付けるけど設問は設けない。まだ教はってない漢字も載せればいいんです。その代わり振り假名を付ければいい。(丸谷才一、對談)
などが擧げられる。輿論調査では日本語の亂れ、特に若者の言葉づかひに不快を覺える人は七割を超えるが、本書では塩田丸男のやうに「自分が氣に入らない言葉遣いをしているやつが多い、と怒っているに過ぎないのではないか、というのが私の疑問である」と疑義を述べてゐる作家もをり、杉本苑子のやうに「若者も、いつまでも、未熟ではいられない。同世代がじりじり成長してゆく中で、若さの特權を振り囘して世間に甘えていれば、落ちこぼれるもきまっている」「たしかに『言葉の亂れは。心の亂れ』であるけれど、日本人のすべてが美しく正しい日本語を忘れ、心を亂して、自國を滅亡の危機に追いやるほど深刻な事例は、過去に無かった」「現今の言葉の亂れも、各時代を吹き拔けた一過性の風と同樣、さほど憂慮するに當らないのではないか」樂觀的に見てゐる作家もをり、米原万里のやうに「世の中の森羅萬象。それに複雜怪奇な人の精神を描き出し、罵り、分析し、彈劾し、解釋し、批判し、祝福し、祝うためには、美しい言葉だけではとうてい間に合わないというもの。評判の惡い『ウザイ』『キモイ』『ムカツク』だって、今の若者たちのそういう心の状態を實にみごとに的確に表現しているではないか。そして、言葉にとっては、それこそが命なのだと思う」と肯定してゐるエッセイストもゐる。 一頃「ウッソー、ホントォー、カワイー」を連發する女の子を「サンゴ族」と言ひ、これに「スゴイ、エエッ、ヤダー、ベツニ、キモチワルイ、バッカミタイ、シンジラレナーイ」を加へた十語で日常會話を辨じてゐる若者を「タンゴ族」と言つた。「超」「------とか」「チクる」のやうな流行語を好んで使ひ、「うじょオー」「いいじゃん」のやうに故意に言葉を崩して使ふのは、眞面目が輕蔑され、成績の良い生徒が苛められる現象と關はりがあるだらう。「ドタキャン」「チョベリバ」などは日本語と外國語を合せて略したもので、幼兒性の言葉遊びの域を出てゐない。かうした傾向は會話に留まらず文章にまで見られるやうになつた。いづれ大人になれば直るなどと暢氣なことを言つてゐる状況ではない。幼少の頃に身につけた言葉感覺は容易に變るものではない。言葉に關しても「鐵は熱いうちに打て」である。若者に媚びてゐては言葉の躾は出來ない。言葉の躾は心の躾でもあることを忘れてはなるまい。