文化廳の『國語施策百年の歩み』(9‐26)

    平成十五年三月、文化廳から『國語施策百年の歩み』が出版された。河合隼雄文化廳長官は同書に寄せて「人間活動の中樞を成し、社會の維持・發展や文化の繼承・創造の基盤を成す國語は、私たちにとって極めて重要なものであり、今後も時代や社會の状況に應じてその望ましい在り方を檢討し、それを實現するための施策を實行していくことが必要です」と、もっともらしいことを述べてゐるが、遺憾ながら本書の内容ははなはだ御粗末であり、税金の無駄遣ひと言ふ外ない。戰後の國語改革が齎した弊害を隱蔽し、自己顯彰に終始し、反省の辯はどこにも見られない。

    野元菊雄は「卷頭隨想」で「特に『新かな』と言われた『現代かなづかい』は『舊かな』の『歴史的かなづかい』に比べて一段とやさしく、習得がすぐできて、一部の例外を除けば、話すとおりに書けばいいということで、優秀な表記法でありました」「今は新聞社などで必ずしも常用漢字にとらわれず漢字を使おうなどという傾向が強まっていますからマイナスの方向に動いているような氣がします。わたしなどはこれは少し表現者の勝手のような氣がします。もう少し受容者の立場に立つべきだと思います」などと見當外れのことを臆面もなく書いてゐる。未だに歴史的假名遣は難しいといふ先入觀に捉はれ、「現代かなづかい」が「優秀な表記方式」だとは笑止である。また常用漢字は一應の目安なのだから、新聞社が常用漢字に束縛されずに自由に漢字を使ふことは望ましいことであり、「表現者の勝手」だと非難する方がをかしい。

   一頃新聞は、例へば「破たん、ら致、誘かい」と書いてゐたが、「拐」の字が常用漢字に入れられたため「誘拐」と書くやうになつた。「綻」と「拉」は依然として表外漢字であるから、表に忠實であらうとすれば「破たん、ら致」と書かざるを得ないが、最近北朝鮮による日本人の拉致が新聞にしばしば取上げられるやうになり、さすがに「ら致」では解りにくいと思つてか「拉致」と書いてゐる。當然のことであり、他の熟語についても一部を假名で書くやうな愚かなことは早急に止めるべきである。

   林大、柴田武、野元菊雄、齋藤秀夫、岩淵匡による「座談會」は戰後の改革を推進してきた人達による親睦會といつた感じであり、例へば「いろんな勝利はあったですね。現代かなづかいはいいですね。これは崩れない」といふ發言に代表されるやうに、戰後の國語改革を自畫自讚してゐるに過ぎない。

   齋藤秀夫は論文「戰後國語施策と新聞」において「新聞界における今囘の表外漢字使用制限の大幅な緩和は、あまり良策でないと言える」と書いてゐるが、漢字使用は新聞社の良識に任せるべきであり、傍らから口出しすべき筋合のものではない。
   昭和六十一年の改訂「現代假名遣い」について、例へば、山口佳也は「現代語音にもとづいて」を「現代語の音韻に從って」と「言い換えたのは、學問的により明確な言い方に改めたものと言える」「まずは順當なところではなかったかと個人的には考えている」と述べ、築島裕は「現代かなづかい」が「一般に廣まってから、既に三十年餘りを經ており、その事實を無視することは、あまりにも現實離れしていると考えられた」「昭和二十一年の『現代かなづかい』と本質的に相違し、理論的に整備されたものであることについては、もっと世間から注目されても良いのではないかと思う」と述べてゐるが、既に改定「現代假名遣い」の項で指摘したやうに、若干の語に例外規定を設けただけで、質的には「現代かなづかい」と些かも變つてゐない。改定によつて「現代かなづかい」を補強したに過ぎない。