(第七十八囘國語講演會 平成十八年五月十三日於日本倶樂部)   外交と日本語 岡崎 久彦   (質問者 萩野貞樹)

萩野 最初に今日の講師、岡崎久彦さんの御紹介をします。今から三十年ほど前でせうか、文藝春秋の雜誌『諸君!』の中に「隣の國で考えたこと」といふ連載物が載り始めて、これは恐るべき文章が出たと毎月首を長くして待つて讀み耽つたものです。この時は別のペンネームだつたのですが、後で岡崎先生と判り、やはりさうだつたかと思つたことがあります。『隣の國で考えたこと』は、確かエッセイストクラブ賞を受賞してゐる筈です。先生は、サウジアラビア大使、タイ大使その他を歴任されて、現在は外交官そのものは退いてをられるやうですが、國際問題に關して樣々な啓蒙をして下さつてゐると同時に、要路の方面にも情報、提言を樣々な形で寄せてをられる方であります。 いつか隨筆で學生時代、東京大學の法學部で、どうして東大の學生たちはこんなに英語ができないのだらうかと思つたといふやうなことを書いてをられたことがありました。先生は英語だけでなく幾つもの言語に堪能なわけですが、語學に關して、さぞ痛快な話が色々あるだらう、それを伺へればいいといふ下心が實はあつたのですが、それはまた別の機會に伺ふことにしまして、今日はまた、少し違つた面から國語問題にも直接關るやうなお話が伺へるだらうと思つてゐます。それでは先生、どうぞよろしくお願ひいたします。

岡崎 中山典之先生の「いろは歌」の御話に大變、感服してをります。學識も構成も話術も、私如き者はとても對抗できませんので、ただ、面白かつたといふことだけ申上げます。 實は今囘のお話は、こんなに困つたことはありません。「外交と日本語」といふ題を頂きまして、うつかりお受けしたのですが、ひと月くらゐ前から、どうも困つたと思ひ悩んでをりました。 外交と日本語は、何の關係もないですね(笑)。我々が苦勞してゐるのは、如何に英語をうまく喋つて相手を説得することができるかといふことでして、日本語は關係ないですね。ひと月前に「もうやめる、無理やりやらせるならお金は要らない」と申し上げましたが、とにかくやることになった。しかも自分が知らないことを喋るとなると、準備に物凄い時間がかかる。これほど時間をかけたことはありません。 それでも何を話していいのか解らないので、色んな勉強をしました。 在日外交官の間で「なんとか平成會」といふのがあるんですね。日本語のできる大使が集つて作つた會で、アマコスト大使が始めたらしい。その中で今、割合日本語がうまいのは、フィリッピンから來てゐるドミンゴ・シアソンさん、イギリスのグレア・クライさん、此の二人が話をするといふので、私は普段は關心がないのですが、今日の講演の參考にと思ひ、先々週、聽きに行きました。話を聽きましたけれども、何にも今日の參考になりませんでした(笑)。 言つてゐることは、端的に言つてしまへば、片言で如何に日本人に日本語を通じさせるかと、その苦勞だけですね。日本語とか國語にとつて深みのある話などは全く聽けませんでした。誰でも想像できるやうな、ほんとに初歩的な話だけですね。とくに丁寧語ですね、敬語。これが難しい。こんな話は、今さら國語問題協議會の先生方に御話しする内容ではないですね。 ただ、聽いてゐて一つ感じたのは、日本にゐる外交官の、外人の日本語の質が非常に落ちたといふことです。外交官といふのは、例へば二十年ほど前日本に居たコルタッチなんていふ人は、みんな戰爭中に日本語を覺えた人です。この人は漢語の表現などを驅使して話し、こちらの言葉の使ひ方が惡いと、向うから咎められたりしました。それくらゐ日本語が出來た。 その前に、例へば私が三等書記官でフィリピンへ行つた時も、フィリッピンの英國大使は日本語の專門家で、本當に日本の古典を全部知つてゐて、半ば冗談ですが文語文と言ふか候文のやうな表現で話して呉れました。 それに較べれば最近の人は片言が出來る程度ですね。片言といふのは不正確ですが、云ひたいことの内容を正確に傳へるだけです。それは出來る。それ以上の日本語の教養はない。 それは結局日本といふ國の地位が低下したからです。つまり大日本帝國があつて、獨逸と日本が米英の主敵だつたから先方も一所懸命勉強するんですよ。 たとへば、アメリカの外交官にしてもですね、私がまだ若い頃の例へばアメリカの次官をやつてゐたアレクシス・ジョンソンとか、極東次官補だつたマーシャル・グリーンとか、皆戰爭中にグレー大使あたりと一緒に働いた人たちです。當時は日本が主敵ですから、一番優秀な人たちが日本語を習つたのです。これは自然の勢ひでどうしやうもないことです。 ハーバードのロシア・スタディと言へば、冷戰時代は、飛び切りの秀才ばかりで、みんな教授、助教授で、ロシアの政治經濟、ロシアの軍事、ロシアの社會國民性に至るまで徹底的に分析して、國務省にもしよつちゆう出入りしてゐる、國際政治研究の花形だつた。 ところが、この前の戰爭が終つた頃は、ハーバードでロシア關係の教授はただ一人しかゐなかつた。しかもその人の專門はドストエフスキーだつたと言ひます。といふことは、第二次大戰中は、全然ロシア問題などに關心がなかつたわけですね。そして、よく出來る人間は日本語をやつた。さういふ時代があつたんです。 その當時に較べると、今の外人の日本語は、つまり、戰後の日本語は、用件が通じるだけの言葉になつてしまつた。日本の文化や國民性を深く理解する實際上の必要が全くなくなりました。また、後でも述べるやうに、日本語自體が自らのスタイルを失ひました。日本語のスタイルを覺える必要が全然なくなつてしまつた。誠に殘念で昔懷かしいんですが、これはやむを得ないことなのでせう。 逆に、日本の外交官で、獨逸語、フランス語の能力がガクンと落ちた。これは恐るべきものです。まだ二十年くらゐ前ですか、戰時中の獨逸スクールが一番盛んだつた頃の大秀才の大使たち、牛場信彦とか、法眼晉作とか、さういふ人が澤山ゐた頃の話です。ある會議で獨逸のお客さんが來て、通譯が獨逸語の通譯をする。その場で、牛場さんや法眼さんが「あ、それは違ふ、間違ひ、それも間違ひ ……」と一々言ふので、通譯ができなかつたくらゐだつたさうです。一言譯すと、もう「違ふ」とやられる。全然水準が違ふんです。 昔、舊制高校で三年間獨逸語をみつちりやつた。大學でも獨逸語の原書を讀んだ。それから獨逸へ留學した。今は教養學部で第二外語。昔の文乙と云つたら、一週間何時間あつたですかね、獨逸語の授業が。今は第二外語ですから、せいぜい週に二、三時限でせう。それで外交官になつてから、海外留學させてもらつてゐるだけの獨逸語ですから、昔の人と水準が違ふのは當り前ですね。 これもまた、國際場裡における獨逸とフランスの地位の低下を表してゐます。昔の外交官は、英語と獨逸語とフランス語の新聞が同時に讀めないと外交官が勤まらないと言はれた。今は讀む必要がない。英語だけ讀めればいい。これは日本についても當てはまると思ふ。日本に來てゐる外交官は、そもそも日本語を讀む必要が無いのかもしれない。まして、日本語の教養といふものを必要としなくなつてゐるのは想像に難くない。 さういふ譯で、外交と日本語と云つても、何を云つてゐるか、通じればいいだけの日本語ですね。それしか要らない。ところが、それはそれで日本語の需要が高まつてゐるらしい。例へばアメリカのジョージア・テックといふ技術關係の大學ですが、數年前に、日本學部が新設された。そこに希望者は澤山ゐると言ひます。どういふ譯かと聞いたら、技術關係の人は日本語の文獻を讀まないと追付かない。他の國の資料は皆英語で讀めるが、英語の文獻以外で是非讀まなくてはいけないのは日本語の文獻だ。これを讀んでおかないと技術の進歩に付いて行かない。なるほど、さう言ふこともあるかと思ひます。そして技術關係の言葉といふのは、これこそ意味が通じればいいんですからね。文化とか教養などは必要ない。さうすると、外人の日本語は、大體さういふ傾向になつて來てゐる。さういふ感じです。 「外交と日本語」といふことでは、もうこれ以上御話しすることはありませんが、英語の學習と言ふことで、私の乏しい經驗だけを少しばかり申上げますと、英語は正に先程中山先生が仰つたのと同じなんです。私も舊制中學の英語ですね。私は三年までです。戰爭が終つたのは舊制中學三年の夏です。それから後は英語はやつてないです。東大の試驗、外交官試驗を受けるまで英語はやつてないですね。東大の英語の授業には出なかつた。程度が低いんですね。戰爭と敗戰の混亂があつたからです。混亂の後ですから質が落ちてゐて、あまり馬鹿馬鹿しくて出る氣がしない。これ、自慢のやうになつてしまひますが、さうしてゐるうちに、一度も出ないのでは點のつけやうがない、だから出て來いと云つてゐる、といふので一遍だけ出ました。それで「ここを譯せ」といふので譯したら、一番いい點を取れました。 戰爭前の舊制中學の英語は本當に水準の高いものだつたと思ひます。中山先生が、江戸時代の水準の日本語の知識をちやんと持つてをられる、恐らく若い方に傳へて頂いてゐると思ひますが、さうでないと傳統が途切れてしまひますから。 私の祖父は、私が六歳の時に死にましたが、毎朝會つてゐましたからよく知つてゐるのですけれども、祖父の初陣は鳥羽伏見の戰ひ(笑)。十五歳か十六歳ですね。教養といふものは、もう出來上がつてゐますから、江戸時代の人間です。だから私は江戸時代の人間が解るんです。中山先生や私は、江戸時代の人間が解る最後のジェネレーションなんですね。これは、やはり後に傳へなきやいけない。私もさう思ひます。 「外交と日本語」で御話し出來るのは、これで全部ですが、私の經驗で若干でも國語問題の御役に立つかなと思ふことは二、三あります。私は、戰後初めてケンブリッジに參りました。今の連中は子供の頃から外國へ行つたり、高校時代にいろいろ短期留學の制度があつて一年留學したりして英語が出來るんですが、私は講和條約を署名してから發效までの一年の間の外交官試驗です。當時日本人で外國に行けるのはガリオアとか、さういふ連中だつた。私は二十三歳で初めて外國に行つたんです。もともとヒヤリングが餘り良くない上に、二十三歳といふのは英語を覺えるには遲いですね。外務省にはリンギストと呼ばれる人も澤山ゐまして、語學の達人がゐますが、私はリンギストではありません。 それがケンブリッジに居りまして、何とか英語を喋らなければならない。どうやつて覺えたらいいのか。さうしたら、ある印度人が「考へるのが英語だつたらいい」と云ふ。さうでせうね。印度人は今でも全部英語で考へるんですよね。さうでないと、あれだけ英語ができないですからね。 さうか、といふことで英語で考へることにした。お腹が空いたら「アイ・アム・ハングリー」と考へるんですね(笑)。四六時中、ちよつと日本語になつたら、すぐ英語で考へ直す。それが結局、今の英語の基です。 さうしますと、難しいことは云へないですから、全ての構文を、主語が一つ、述語が一つ、それをアンドかバットだけで繋げる。これはやつて見ると出來ますよ。それが人間の言葉の基本ですよね。もたもたした構文といふのはなくなりますね。 全ての構文はアンドかバットだけで整理できます。それ以外は、スタイルがあればいいのです。つまり決まり切つた物の言ひ方ですね。日本語で云へば漢文口調とか言ふことです。 これで文章を書きますと、當時英語は「シンプル イングリッシュ」が良いといふことになつてゐまして、さう言ふ本も出版されてゐたぐらゐで、結構良いと言はれる英語が書けるんです。ただ、こればつかりやりますと、單調になつてしまふ。しやうがないんで、所々ラテン系の難しい單語をぱつと入れる。例へば 「シヴィライゼイション」といふ言葉は「ゼイション」がついてゐますからラテン系ですけど、ほかは輕く話して、途中で「シヴィライゼイション」と大きな聲で勿體らしく發音すれば良い(笑い)。さうすると大體英語の形になるんです(笑)。 未だに私は、日本語も英語も全部それです。結局、あの時に「英語で考へろ」と云はれたのが、英語についても日本語についても、私のスタイルの基になつてゐる。これは非常に樂です。發想が先にあつて、それを如何に説明するかといふことなんですけれど、英語といふやうなものは、自分の國の言葉ではないですから眞似しても眞似しても英國人と同じにはなりません。 私自身の經驗ばかり云ふものですから自慢みたいになつてしまふんですが、それが私にとつて全てのスタイルの基になつてゐます。   最近たまたまド・ゴールの大戰囘顧録の解説を頼まれ、その序文を讀み直す機會がありました。 この翻譯は一九六八年度のポール・クローデル賞をとつた名譯ですが、三十年經つて復刊の折に譯者村上光彦氏がもう一度自分で不滿足と思ふ箇所を譯し直したといふ良心的な翻譯です。  誠に堂々たる正確な譯です。ただ、それでも日本語として讀みづらい所があります。以下は引用です。 「生涯を通じて私は、フランスについてある種の観念を胸のうちにつくりあげてきた。感情のみならず理性もまた、私の心に、それを吹き込むのである。私のうちなる情的な要素は、おのずとフランスを、お伽噺の王女さながら、ある卓越した類例の無い運命にささげられているものと思いなす。そして神はフランスを完璧な成功かさもなくば見せしめ的不幸のために創造したのだという印象を、私は本能的に感得している。それにもかからわず、たまたま、フランスの行為や身振りが凡庸さの刻印を帯びるのをみるとき、祖国の真髄にではなく、フランス人の過誤に帰せしめるべき、何か理に合わない異変といった感じを受ける。すなわち、フランスが本当におのれ自身であるのは、それが第一級の地位を占めているときだけである。つまり私の考えでは、フランスは偉大さなくしてはフランスたり得ないのである。」  そこでをこがましいのですが、私が四十年前に大使館二等書記官としてパリに居たとき、おそらく村上氏の翻譯とちやうど同じ頃、翻譯したテキストをご紹介させていただきます。 「生涯を通じて、私はフランスについてある特別なイメージを抱いてきた。このイメージは理性によると同時に感情によって創り出されたものである。 私の感情の中にあるフランスは、お伽話のお姫様のように、他に卓越し、他に類を見ない運命に導かれているものである。私は本能的に、フランスは神の摂理により、完全な成功を享受するためか、さもなければ、神の試練を受けるために創造されたものと感じている。 もし万が一、フランスのすることの中に、そのどちらでもない平凡なものが見受けられるようなことがあれば、私は、そこに、話にならない異常さを感じる。その異常さは、もとより祖国の優れた天性に基づくものではなく、その時代のフランス人の過失に帰せられるべきものである。私はフランスは第一級の国でなければ本当のフランスであり得ないと確信している。 一言にして言えば、私の考えでは、偉大さのないフランスはフランスではあり得ない。」  これをお讀み頂ければ判ると思ふのですが、私の文章は全部、アンドとバットだけの構文です。關係代名詞を必要とするやうな構文はありません。それで私の譯の方がわかり易いと言つていただければ―─押し付けがましいのですが──それが私が申し上げたいことの全てです。 これは、元はフランス語ですけども。私は外務省にをりましても、部下が持つて來る英語の飜譯がどうも解り難いんですね。その場で書き直さないと飜譯にならない。どういふことかな、と思ふんですが、外國語といふものを外國語としてその通り譯さうと思ふと駄目なんだと思ひますね。内容を把握して、それを自分で理解して自分で説明しなくては駄目ですね。多分、さういふことだらうと思ふんです。例へば現在の日本語は、全部逐語譯の飜譯みたいなところがあるんです。文章の調子が出て來ないんです。 それとやはり文章のスタイルです。 文語の苑の仲間、と言つては失禮で、尊敬すべき先輩なのですが、市川浩さんといふ方が居られます。その方が會報に投稿された文章を拔萃してご紹介します。  嘗て貧しくとも高貴なりし日本人の今や必ずしも富まずしてかくも野卑となりたる原因の一つに識者しばしば國語の荒廢を擧ぐ。・・・ 最近の極く一般的なる口語文「重要ナコトハ誰モガ安心シテ醫療を受ケラレルトイフコトデアル(ラウ)」これを文語文に草するに「重要なるは誰もが安心して醫療を受けらるゝことなり」などとするは飜譯口語の文語譯となり果つ。推敲の例を擧ぐれば「萬民醫療を受くるに齊しく安心あるこそ肝要なれ」或いは「萬民齊しく心を安んじて醫療を受く、これぞ國の基なる」かくして最初の口語文を「誰モガ安心シテ醫療ヲ受ケル、コレガ重要デアル」とせば、簡潔要を得べし。・・・直截雄勁なる口語體建設の要今日より大なるは無し。これを思ひ先づ原點に立戻りて文語の遺産を繼承し、口語體の發展に資せばやとなむ。これ文語の苑活動の大いなる一側面なるべく、有志の人士更に參加せられむことを。(平成十八年四月八日)  誠にお説の通りです。市川氏のお説の一番いい例は、陸奧宗光が翻譯したベンサムの『道徳及び立法の諸原理序説』です。 皆さんご存じのやうにベンサムといふ人は、例の「最大多數の最大幸福」といふことを考へた人ですね。だから刑法の基を作つた人です。つまり、人間が人間を罰するといふのは恐ろしい話です。特に中世以來のイギリスは嚴罰主義ですから、非常に殘酷な罰を加へた。そんなことが正義の名の下で許されるのだらうかと言ふ疑問から發してゐます。といつて、惡い奴がゐる限り罰を加へない譯にはいかない。ぢや、どうしたらいいかと彼は考へたんですね。それは、惡い奴を罰すれば他の人間が幸せになる。罰を與へられた人間は不幸せになる。結局、その幸せの總量と不幸せの總量を較べて幸せの方が多ければいいんだといふ考へなんですね。 大體人間といふのは快樂と苦痛の二つ──快樂を求めて苦痛を避ける──その二つしかないんだと。快樂を最大限にして苦痛を最小限にするやうな刑法を作ればいいんだ。さういふ考へですね。それをここで説明してゐる譯です。 これを英語で Every effort we can make to throw off our subjection, will serve but to demonstrate and confirm it. In words a man may pretend to abjure their empire, but in reality he will remain subject to it all the while.と言つてゐます。 それで、これを西村さんといふ立派な法律家が譯したんです。「だから兩者に對する私たちの服屬關係から逃れようとして、どんなに努力してみたところで、所詮この服屬關係を證明し確認するだけのことであらう。人は、この兩者の君臨してゐる帝國から離脱してゐるのだと口先だけでは云ふことが出來よう。ところが現實には、その間、どこまでも兩者に服してゐるわけである。」 これは正確な譯ですね。文句のつけやうのない立派な譯です。しかしこれを陸奧が譯した。「もし試みにこの羈絆を逃れむと企謀せば、いよいよその羈絆の堅牢なるを證見するのみ。決して片時もそれを逃るる能はず。但し、人、あるいは實に畢生の間、苦樂のために拘束せられながら、なほ、われ能く苦樂の彊域を離去せりと妄言する者あるのみ。」 これは、今讀んだだけでも陸奧の方が解り易いですね。しかも、この方が短いですよ。この西村さんの譯が三行半、陸奧宗光は二行半ですね。 しかも、「もし試みに」などと言ふ、嚴格な逐語譯からすれば不用な餘計なものまで付いてゐてそれで短くてわかり易いのです。これは一體どういふことかと思ふんですね。最後に私が、どう譯すかなと思つて譯してみたら、これはもう何でもないんで、「服屬關係から逃れようとすればするほど」とすれば良い。「すればするほど」といふスタイルがあつてもいいですよね。「──すればするほど、その存在を確認するだけだ」と。この社會から脱してゐると稱する人がゐても、實際にはその支配下にゐて、いくらもがいてもダメだ、とさう云ひたいだけなんですよね。 初めの飜譯だと、いい飜譯なんだけれど、文章を初めから終りまで讀まないと意味がわからない。ところが、眞つ先に「試みに」と來て「のみ」で終つてゐると、間の文章は漢字の拾ひ讀みだけで文意がわかつてしまふわけです。つまりスタイルがあるか、無いかの問題です。スタイルが無いと言葉を一つ一つ拾はないと意味がわからないわけです。 さつきの市川さんの例では、まづ文語で考へてから現代文にすると良い現代文になる。また英語を喋る時に、まづ文語で考へてから英語にするとメリハリのきいた英語になる。これは、どういふことかなあと思つてゐました。勿論、文法は中國語と英語の方が日本語より近いですよね。それがあるかな、といふ氣もしてゐましたが、それだけぢやないですね。 現代文がスタイルを失つてゐるのです。英語とか、文語文は長い歴史と傳統を守つてゐる言語です。特に漢文の訓み下しの文章といふのはスタイルがあるんですね。みんな書く時にスタイルを考へながら書く。ところが、今日本語は、誰もスタイルを考へない。意味が通じればいいといふことを、ただ、だらだらだらと云つてゐるだけです。これが、逆に解り難い。 そこで我田引水になつて「文語の苑」なんですけども、文語教育、特に漢文の訓み下し教育ですね。つまり、漢文教育。これはやはり小學校、中學、高校で、もつときちんとやるべきだと思ひます。さうでないと、人間の言葉でない人工的言語になつてしまふ。スタイルがないことになる。それがつまり日本語の現代文です。 ここから先は本題から離れて「文語の苑」の宣傳になりますが、陸奧宗光の文章にご關心があれば、文語の苑のホーム・ペイジを開いて陸奧宗光の『蹇々録(ケンケンロク)』をお讀み下さい。文語體のスタイルの粹と言つて良い樣な出來榮えです。  何かこれだけの方々を前にしながら、宣傳と自慢だけのお話になつてしまつた感があり、内心忸怩たるものが御座いますが、このあたりで終はらせて頂きます。

萩野 有難うございました。外國の言語に關しては、外交上の重要さをどうとらへるかによつて、その言語の實力が大きく左右されるといふのは、なるほどさうであらうと思ひますが、改めて面白いご指摘だと思ひました。それで、ちよつと思ひ出したことがあるんですが、十何年も前になるんでせうか、金丸信さんが北朝鮮に行つた時、金日成と會つたのですが、通譯は向うの人だつたやうですね。それで金日成が「先生よくお出で下さいました」といふ風に歡迎の鄭重な挨拶をしたやうに通譯されてゐましたが、あれは全く目下相手の言葉だつたさうですね。朝鮮語にはちやんと目下相手の言ひ方があり「パンマル」といふんださうですが、それがはつきり使はれてゐたといふことを呉善花さんが『スカートの風』で言つてゐます。さういふ事を考へると、確かにこれから重要であるところの朝鮮半島の言語について、こちらの實力を飛躍的に高めて行かなければならないものだらうなといふことを改めて感じた次第です。ところで、先生の御書きになるものは普段拜見してゐる文章で云ひますと、非常に文章が解り易い、易しい。しかも非常に論理的ですから、素直に頭に入つて來ます。これは恐らくお若い頃から日本の古典の中で、或いは漢詩文の中で成長なさつたからではないかと睨んでをるわけですが、どのやうな勉強をされて來たのか、御話を伺へればと思ひます。

岡崎 私は、日本の文學は解りません。俳句ひとつひねれない。子供の頃から何十囘讀んだか解らないのは『十八史略』ですね。それと『史記』。それよりも一番基は『春秋左氏傳』ですね。恐らく『十八史略』も『史記』も、その文體を眞似して書いたものでせうね。『左氏傳』は一つの國の歴史だけですから、今それを讀んで得る歴史的知識は餘りないんですね。それよりも漢文のスタイルの古典です。

萩野 さういふことだと思ひますね。私どもの年齡の少し先輩である岡崎先生になると、既に漢文訓み下しの訓練が桁違ひだなといふことを感じます。森鴎外が、若い青年が傍に來て、文學の修行には何がいいだらうか、教へてくれないかと云ひますと、左傳を繰返し讀めばいいんだ、それ以外には何もないといふ風に教へてゐたさうですね。ですから私なども、いくら遲くとも讀みこなさなければならないものだらうと思ひますが、なかなか難しい。要するに私たちは、漢詩・漢文、ああいふ引締つたものに常に觸れてゐなくてはならないのだと思ひます。實は會場の後ろのはうに展示して販賣してゐるのですが、『英才を育てるための小学校国語副読本』(PHP研究所)といふものがあります。これは私と石井公一郎先生とでまとめたものなんですが、漢詩・漢文も遠慮なく採り入れてゐます。例へば『論語』や『大學』、李白の詩などは一年生から與へるやうになつてゐますし、『孝經』の「身體髮膚、之を父母に受く。敢へて毀傷せざるは孝の始めなり」などといふものは白文と訓み下しで二年生に與へるといふ編輯になつてをります。これは考へてみれば特別なことではなくて、少し前の人たちは三つ四つ五つぐらゐの時に漢文の素讀を受けてゐたわけですね。山鹿素行が『配所殘月』で述べてゐますが、自分は六歳の時に勉強を始めた。しかし頭が惡いものだから四書五經、七書詩文の書をおほかた讀み覺えるのに八歳までかかつた、などと言つてゐる。この八歳といふのは今で言へば小學校に上る年齡ですね。別に素行は、秀才だからといふので學んだわけではありません。數へ六つの子供ならいくら素行でもただの幼兒にすぎなかつたでせう。それでもさういふ基礎訓練をしてゐた。その上での學問・教養だつたのだな、といふことがよくわかるのですが、岡崎先生も何か似たことがあつたのではないか。幼いころの經驗談でも一つ二つご披露いただければと思ひますが。

岡崎 幼い頃は何もしてゐません。『春秋左傳』は文章がいいんでせうね。中の史實は餘り意味がありません。文章については、荻生徂徠が云つてますね。何か讀むんだつたら『春秋左傳』と。 冗談として申上げますが、私は、まだ極祕で外へ出してゐませんが、サウジ・アラビア滯在記を書きました。そのときに、初めは、左氏春秋傳と名づけました。左氏を「サウヂ」と讀むんです(笑、拍手)。 次いでに冗談をもう一つ――中山先生の御話を聞いて思ひ出したんですが、いろは歌に都都逸があります。「四つ五つからいろはを覺え、はの字忘れて色ばかり」(笑、拍手)。

萩野 先程の御話にありました文語の苑は數年前、岡崎先生ほかを贊同者として設立された、文語を讀んだり書いたりしてお互ひに樂しみつつ勉強しようといふものですが、それがインターネットに繋いで行はれる、その中で御茶の水女子大學には學生たちのサークルがあつて、文語の苑の支部のやうな形になつてゐます。そこへ我々が出かけて行つて、書いたり讀んだり、作文をして見せ合つたりして一緒に勉強してをります。岡崎先生は、その會合にはあまりおいでにならないのですが、今度は御茶の水女子大學の方へも出來るだけおいでいただきたいと思ひます。

岡崎 はい。(笑)。

聽衆某 外交と日本語といふことで、外交官の日本語のレベルが下つたといふことを先程聞いて、それは日本のステイタスが下つた。もう一つ、日本語をやらう、日本の文化をやらうとする場合は舊假名、そこに行く。戰前と違つて、今日本語をやることが二つに分れてしまつてゐる。このことの影響といふのはないものでせうか。

岡崎 昔の外國人は舊假名を全部知つてゐましたですね。最近は新假名で何とか話が通じればいいので、その日本語だけやつてをります。日本の文化、文學、日本の文明まで知らうとして日本語をやらうといふ人は本當にゐなくなりましたね。 別の意味で感心したのはイギリス大使のグレアム・フライといふ人です。外國語の中で一番難しいのは日本語だと云ふから、ぢや、それをやると云つてやつてみた。ところがやつて見ると本當に厭になつたさうです。漢字をただただ暗記するので、あんな辛いことはなかつた、と。 だけど彼は頑張つたさうです。どうしてかといふと、日本はやはり、これだけ大きな國だ、産業も技術も進んでゐる。だから、日本語が判る人間を作るのは、イングランドのためだ。つまり、お國のために頑張つたんですね。さうでせうね、日本の文化に關心なしで、日本語だけ覺えるのは拷問のやうな作業でせうね。

聽衆某 さういふ實利的な意味ですね。

岡崎 明治から昭和初期までは、日本文化といふ世界でも稀な文化を造り出した日本の國を勉強して、その神髓を理解しようとしたラフカディオ・ハーンのやうな人がゐましたが、さういふ人はもうゐないでせう。東大やお茶の水あたりに入學してゐる人に一人か二人はゐるのでせうか。

萩野 今はなんでも口語になつて締りがなくなりました。もう十數年も前になりますが、昭和天皇の大葬の禮、葬場殿の儀では天皇陛下が誄(ルイ・しのびごと)をお讀みになつたわけですが、「明仁謹んで御父昭和天皇の御靈に申上げます」といふ言葉で始まります。もともとは「ああ悲しい哉」で締めたはずの文末も「誠に悲しみの極みであります」となつてゐた。また即位禮では海部首相の「壽詞(よごと)」は「謹んで申上げます。天皇陛下におかれましては …」と始る。どうもがつかりでした。昭和二十七年の立太子禮では、加冠の儀の後の奉禮のお言葉は、「茲ニ禮ヲ供ヘ明仁ニ冠ヲ加ヘタマフ洵ニ歡喜ノ至ナリ今ヨリ愈々思ヲ身位ニ致シ童心ヲ去リ成徳ニ順ヒ温故知新以テ負荷ノ重キニ任ヘムコトヲ期ス」。といつた文體でした。私などはかうしたものの復權を夢見るわけですが、それはともかくとしてこれからの文體といふことに關聯して何かお考へをお話いただけないでせうか。

岡崎 文體、現代語のスタイルを作ることは可能だと思ひます。戰後の文體で一番感心したのはビートたけしの自傳ですね。實に流れるやうで全く淀みがない。これは一種の天才の文體でして、誰にも出來る譯ではない。誰もが出來ると云へば、やはり古典、古文ですね。日本の古典でもいいし、私の場合は訓み下し漢文ですけれども、それをじつくり覺えればスタイルは自ら出てきますね。今のやうな御話を聞くと、本當に厭ですね。さういふ莊重な場で、締りのない言葉で語られるといふのは …。やはり古典教育が必要だと思ひます。

聽衆某 外交における飜譯のことですが、敕語が英語になるのは、どういふ風な過程でなるのか、非常に氣になるんですが、開戰の詔敕とか、終戰の詔敕とかは何時誰が書くのでせうか。

岡崎 明治以來出來て來た詔敕の型をそのまま使つてゐるんでせうね。それならそれで良いのですが、さうでないと、しまらないことになる。

萩野 どうも有難うございました。 (をかざき ひさひこ・元タイ大使、NPO岡崎研究所所長、本會評議員)