後 書

國語問題協議會事務局長  谷田貝常夫

華々しい活動が行はれた本協議會の初期十五年の記録として『十五年史』が刊行されてからさらに三十年が經つたのを機に、今一度來し方を振り返つてみようと本書は企畫された。

この四十五年間を概觀すると、三つの時期に分けられさうである。小汀利得理事長林武會長の十六年間、木内信胤會長の十八年間、そして宇野沿齪長の十二年間である。どの組織もさうだが、創業の初期はりつぱな活動が行はれるもので、最初の十六年間には時枝誠記、市原豐太、吉田富三、宇野沿黷ニいつた大立て者が發言し、sc恆存、土屋道雄といつた錚々たる國語問題の論客が強力な後ろ盾となつてゐた。國語審議會の委員だつた當會理事の宇野沿黶A鹽田良平、成瀬正勝、船橋聖一の四委員が、山岸徳平委員と共に脱退した事件や、「吉田富三提案」が取上げられ、中村文相が國語審議會において「國語の表記は、漢字かなまじり文によることを前提とし」と明言したのもこの時期であつた。ところが十五年史が世に出た昭和五十年に、それまで實質的に會の運營に携はつてゐた近藤祐康が主事を辭め、さらには土屋道雄も翌年には實務を離れる。sc恆存も協議會の役員の言動その他にはかなり悲觀的で、理事を辭退するまでになつてゐた。

その後、木内會長の時代となつて本協議會の活動は、會長が國語審議會の委員となつてからか、徐々に方向がずれはじめる。それを象徴する最も重大な事件がsc恆存の脱會である。sc恆存は本會創立の中心人物であり、本會の拐~の柱であつた人である。

退會の原因は、昭和六十年、當時の本會會長であつた木内信胤氏が、國語問題協議會の名に於て、國語問題協議會に對し本會の本來の方針に反する奇怪な提案を行つた事にあつた。

昭和六十年九月三十日、木内會長は「かな遣ひの問題はどのやうに扱ふべきか」といふ小册子を發行した。此の中に「國語問題協議會の名に於る」、「國語審議會への提案」が記されてゐる。要點を箇條書にすれば、次の通りである。

右の提案は、國語改革派に横目を使つたものであり、根本から誤つた言語觀に基く奇怪でもありかつ訣の判らぬ提案であり、しかも此れを「國語問題協議會」の名に於て發したのである。土屋道雄はこの提案に逐一反論した上で、「國語のことがわかる人もゐるはずなのに、かなづかひの本質、かなづかひとは何かといふ根本を忘れたこのやうな案がどうしてつくられてしまつたのか。このやうな案に、『私の國語教室』を書いたsc氏が同調できるわけがない。氏は會員たることを恥ぢるとして協議會に退會願を出した。創立の中心人物である氏が退會願を出すといふのは餘程のことである。その心中を察して、協議會が本來の姿を一日も早く取り戻すやう願はずにはゐられない」と書いてゐる。

sc恆存退會といふ大事件であつたにもかかはらず、木内會長はその路線を變へなかつたし、自分の主張して來た「當用漢字」の「常用漢字」への變更が本協議會の勝利と喧傳さへした。たとへ常用漢字表が「目安」とされても、漢字の混亂はその後も少しも變はつてはゐないし、擴張新字體なるものがはびこつて漢字の世界はますます渾沌としてきた。勝利どころではないのである。

其後、宇野沿黷ェ會長になつてからは、右の路線は自動的に修正され、協議會は本來の姿に戻つて來たが、木内路線の誤りを批判し公式に否定する處置は取られてこなかつた。

平成十七年十一月九日、國語問題協議會第四百四十四囘理事會に於て

以上の事を理事會に於る了解事項として確認した。

四十五年といふ時間はかなりの長さである。爲に、その間の記録をまとめる仕事は竝大抵のことではなかつた。編輯委員諸氏の努力がここに曲がりなりにも稔らうしてゐる。創立以來會員でありつづけ、ここ約十年會長を務めてくださつた宇野沿齔謳カが九十三歳といふ御高齡になられたこともあつて、これを機に名譽會長へと一歩退かれた。樣々な要素が一つの區切りを迎へようとしてゐる時かとも言へる。今後は若い人を中心にして、sc恆存、宇野沿黷フ線を守つて國語問題に息長く取組んで行くことにならう、日本文化を永續させるために。

平成十七年十一月


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