戾る

國語問題略史

 國語國字問題の起󠄁りは、漢字、漢語の排斥に始ってゐる。そしてそれは國粹主󠄁義からこれを排しようとするものと、西洋の文明󠄁に接し、西洋文字に幻惑されてこれを便利至高のものとして、わが國の文字特に漢字を呪詛するに至ったものとの二つの源流がある。前󠄁者には、古く賀茂眞淵などがあり、また下つて明󠄁治十四、五年頃から廿一年頃まで續いた「かなのくわい」の會員などがそれであらう。後者には、江戶時代には算學者本多利明󠄁などがある。德川慶喜に「漢字御廢止之儀」を建白した(慶應二年)前󠄁島(ひそか)や、「布吿ノ書二假名文ヲ用ヒ」るべきことを公議所󠄁へ建議した(明󠄁治二年)柳河春三などは後者に屬するが、主󠄁張は假名專用であって、その他の漢字排斥論者はほとんどローマ字論者である。

 またこれらの間にあって、漢字の使用をできるだけ少くせよといふ福澤論吉の漢字節減論が現れてゐる(「文字之敎」、明󠄁治六年)。これは漢字制限論の最初のものである。この福澤の漢字節減論は「日本二假名ノ文字アリナガラ漢字ヲ交へ用フルハ甚ダ不都合ナレドモ往󠄁古ヨリノ仕來リニテ全󠄁國日用ノ書二皆漢字ヲ用フルノ風卜爲リクレバ今俄二之ヲ廢セントスルモ亦不都合ナリ(略)漢字ヲ全󠄁廢スルノ說ハ願フベクシテ俄二行ハレ難キ事ナリ此說ヲ行ハントスルニハ時節ヲ待ツヨリ外二手段ナカル可シ」と云ってゐる通󠄁り、漢字全󠄁廢を將來に托し、次󠄁第に漢字を廢するやう心掛けよと云ふのである。この精紳はそのまゝ後の臨時國語調󠄁査會や國語審議會に受󠄁け繼がれてゐる。

 ローマ字論の嚆矢は、明󠄁治二年五月󠄁、「修國語論」を大學頭山內容堂に建白した南部(よし)(かず)である。南部は同四年、五年と績いて文部省(明󠄁治四年)七月󠄁設置に建白してゐる。

 明󠄁治七年には西周󠄀(あまね)が「洋字ヲ以テ國語ヲ書スルノ論」を「明󠄁六雜誌」に發表したが、これに對し同じ誌上に於いて西村茂樹が反對論を述󠄁べ、「西先生ノ說二曰ク文字ヲ改メテ民ノ愚見ヲ破ルト僕謂ヘラク民ノ愚見破レザレバ文字ヲ改ルコト能ハズ」と道󠄁破した。

 明󠄁治五年に、後の文部卿森(あり)(のり)は、アメリカに於いて、英語を以って日本の國語に代へようといふ意󠄁見を唱へた。これは歐米の言語學者らに(たしな)められたり冷笑されたりしたが、當時ロンドンにあった馬場辰猪は森の意󠄁見に憤慨して英文を以つて日本文典を著し(Elementary Grammar of the Japanese Language)、その序文に於いて日本語の優秀なことを論じた。

 明󠄁治十年、廿年代は一路文明󠄁開化󠄁、歐化󠄁へと滔々と(はし)った時代であり、日本人の體格改良、食糧改良等と竝んで國語改良論が盛󠄁んに行はれ、その間に新字を作成󠄁して國字としようとする試みなども次󠄁々と現れたが、いづれもうたかたの如く消󠄁え去った。これら外國崇拜に基く皮相な改革論は、日淸戰爭後次󠄁第に衰へて行ったが、新歸朝󠄁者上田(かず)(とし)らに依って歐州諸國の綴字改良運󠄁動が直譯的󠄁に輸󠄁入されたことに刺戟されて、遂󠄂に文部省が假名づかひ變革を企圖するに至るのである。

 

◇明󠄁治卅一年七月󠄁、加藤󠄁弘之、上田萬年、矢田部良吉、井上哲次󠄁郞らに依つて「國語改良會」設立。

◇明󠄁治卅三年四月󠄁、文部省は前󠄁島密、大槻文彥、那󠄁珂通󠄁世、湯本武比古、上田萬年、三宅雄二郞、德富豬一郞、朝󠄁比奈知泉ら八名に國語調󠄁査委員を任命。

◇明󠄁治卅三年四月󠄁、井上圓了は『漢字不可廢論一名國字改良論駁擊』を刊行して國字改良論に反對。

◇明󠄁治卅三年八月󠄁廿一日、文部省令を以って小學校敎科書中の字音󠄁假名づかひを發音󠄁式に改めた(國語假名づつかひはそのまゝ)。「蝶々」は一擧に「チョーチョー」と變へられ、敎育界に混亂を捲き起󠄁し、且ついはゆる棒引假名づかひとして後世に醜名を曝し

た。次󠄁に揭げるのは當時の文部省檢定國語讀本の一節である(坪󠄁內雄藏著、明󠄁治卅三年九月󠄁十七日冨山房󠄁發行)。

ケフハ、テンチョーセツデゴザイマス。オハナサン、オイハヒノショーカヲウタヒマセウ。(尋󠄁常小學校用一年)

父󠄁「さよー〳〵。時計は、朝󠄁も晚も休みませぬ。それに又、しょーぢきで、時間をまちがへませぬ。」(同二年)

◇明󠄁治卅五年三月󠄁、文部省はさきの國語調󠄁査委員を廢し、更に規模を擴大して國語調󠄁査委員會を設置(委員長加藤󠄁弘之) 。この調󠄁査委員會は、四月󠄁から九月󠄁に亙り九囘の討議を行って、次󠄁のやうな四項の調󠄁査方針を決議した。

一 文字合音󠄁韻文字(フオノグラム)ヲ採󠄁用スルコトヽシ假名羅馬字等ノ得失ヲ調󠄁査スルコト

二 文章ハ言文一致體ヲ採󠄁用スルコトヽシ之二關スル調󠄁査ヲ爲スコト

三 國語ノ音󠄁韻組織ヲ調󠄁査スルコト

四 方言ヲ調󠄁査シテ標準語ヲ選󠄁定スルコト

右に於いて注󠄁意󠄁すべきことは、第一項に見るやうに、「音󠄁韻文字採󠄁用」が前󠄁提となってゐることである。調󠄁査の目的󠄁は、假名がよいかローマ字がよいかといふことであって、漢字廢止は既定の事とされてゐることである。この國語調󠄁査委員會の基本方針が、後にそれに代った臨時國語調󠄁査會(大正十年設置)に於いても、またその後の國語審議會(昭和九年設置)に於いても、更にそれを改組した現在の國語審議會(昭和廿四年改組)に於いても、變ることなく踏襲されて來てゐるのである。

◇明󠄁治卅八年三月󠄁、文部省は「國語假名遣󠄁改定案」「字音󠄁假名遣󠄁ニ關スル事項」その他を高等敎育會議、國語調󠄁査委員會等に諮󠄁問。高等敎育會議は、假名づかひ改定は重要󠄁な問題であるとして決議を延󠄁期󠄁した。時あたかも旅順が陷落、國民思想が昂揚するや、四月󠄁に至り假名づかひ變革に反對する團體として、井上賴圀、三矢重松、物集高見ほか十數名に依り「國語會」が設立され(會長東久世通󠄁禧)、同月󠄁、伊澤修二は「日本」紙上に假名づかひ變革の不可なる所󠄁以を論じた(伊澤はその昔ローマ字論者として知られたが、後これを非とするに至った達󠄁識の人) 。正論漸く世に重んぜられ、棒引假名づかひの缺陷が實際敎育に於いて暴露され、その廢止を要󠄁望󠄂する聲が朝󠄁野に高まった。特に字音󠄁假名づかひの變革が延󠄁()いては國語假名づかひに影響を與へつゝある實狀に文部省自身が驚き、反省する形勢に至った。

◇明󠄁治卅九年十二月󠄁、物集高見、三浦安、櫻井熊太郞ら四十數名が「國語擁護會」を創立、文部省の「假名遣󠄁改定案」に反對運󠄁動を展開。

◇明󠄁治四十年三月󠄁、貴族院は發音󠄁式假名づかひを歷史的󠄁假名づかひに戾すべきを文部大臣に建議。

◇明󠄁治四十一年五月󠄁、遂󠄂に文部省は臨時假名遣󠄁調󠄁査委員會を設置、「國語及󠄁字音󠄁ノ假名遣󠄁二關スル事項」を調󠄁査せしめることになった。この委員會では、伊澤修二が熱烈な、森鷗外が穩健中正な、それ〴〵假名づかひ變革反對論を開陳したことは有名である。(鷗外の演說した「假名遣󠄁に關する意󠄁見」は鷗外全󠄁集刊行會の『鷗外全󠄁集』第二卷、岩波版同第十九卷に所󠄁收、必讀の文字である。)

 森鷗外、伊澤修二らの正論によって遂󠄂に文部省は九月󠄁に至り三十三年の棒引假名づかひを撤囘し、國語敎育は一應正常に戾った。(臨時假名遣󠄁調󠄁査委員會は四十一年十二月󠄁廢止。)しかし、明󠄁治末期󠄁から大正初期󠄁、中期󠄁にかけての文敎の組織の中には依然として變革論者が徒黨をなして巢くつてをり、再び三たび國語破壞論が發生する可能性を十分に具󠄁(そな)へてゐたのである。

 

◇大正二年六月󠄁、國語調󠄁査委員會廢止。

◇大正九年、山下芳太郞は「假名文字協會」を作り、十一年「カナモジカイ」として改組し、變形片假名左橫書きを主󠄁張した。この「カナモジカイ」は現在に至るまで續いてをり、「カナモジタイプライター」を宣傳すると共に、その會員は現在國語審議會に於いて漢字廢止、國語表音󠄁文字化󠄁、左橫書きを主󠄁張してゐる。

◇大正十年六月󠄁、臨時國語調󠄁査會設置。これは前󠄁の國語調󠄁査委員會で決定した「目下ノ急󠄁二應ゼンガ爲」の數項のうち、漢字、假名づかひ等の調󠄁査を主󠄁な目的󠄁としたものである。會長森鷗外は、この臨時國語調󠄁査會を國語破壞會であると云ひ、しかし自分が奉職してゐるうちは何とかして食ひとめるやうにすると云ひつゝ、七月󠄁九日病のために世を去った。鷗外は、臨終󠄁に當って「自分は日本文化󠄁の將來については些かの懸念もない。たゞ假名づかひを變へようとする運󠄁動があることだけが氣がかりでならない」と悲痛な言葉を特に山田(よし)()に遺󠄁してゐる(濱野知三郞を通󠄁じて) 。七月󠄁、森鷗外の跡を襲って上田萬年が臨時國語調󠄁査會會長となると、再び國語改良運󠄁動が盛󠄁んとなる。

◇大正十二年五月󠄁、臨時國語調󠄁査會は漢字制限表「常用漢字表」(一、九六二字)を發表。八月󠄁六日、東京、大阪の有力新聞は共同宣言を發して九月󠄁一日から一齊に漢字制限實行を期󠄁したが、九月󠄁一日關東大震災のため中絕。

◇大正十三年十二月󠄁、臨時國語調󠄁査會は國語竝びに字音󠄁の「假名遣󠄁改定案」を發表、文部省が急󠄁速󠄁にこれを實行する氣構󠄁へを示した。この時もまた大震災後一年を經た、社會思想が險惡化󠄁を辿つてゐた頃であり、新聞は一齊に變革案を支持、國語は危機に瀕するかに見えた。

◇大正十四年二月󠄁、山田孝雄は『文部省の假名遣󠄁改定案を論ず』と題する册子を自費出版し、「ぢ、づの廢棄」「長音󠄁符の不合理」等十五項目に亙つて「假名遣󠄁改定案」の不可なる所󠄁以(ゆゑん)を擧げ、これを完膚無きまでに論破した。續いて芥川龍󠄁之介、藤󠄁村作、美濃部達󠄁吉、松尾捨󠄁治郞、高田保馬らが反對論を發表し、また、與謝野鐵幹、晶子夫妻は、主󠄁宰の雜誌「明󠄁星」を擧げて反對論を揭載した。遂󠄂に帝󠄁國議會に於いてこの事を問題とするに至り、衆議院議員松山常次󠄁郞が岡田文部大臣に質問し、文部大臣は遂󠄂に調󠄁査會案を實施する意󠄁志無きことを言明󠄁した。しかし國語改良運󠄁動は終󠄁熄したのではなく、再起󠄁を期󠄁して次󠄁第に政治的󠄁潛行運󠄁動に入ったのである。

◇大正十四年六月󠄁、東京の有力新聞は「漢字制限に關する宣言」を共同發表、調󠄁査會案の實行に移ったが、數年にして守られなくなった。

 

◇昭和二年四月󠄁、鐵道󠄁省は驛名表示等に發音󠄁式假名づかひ、左橫書きを決定、實施しかけたが、鐵道󠄁大臣小川平󠄁吉の意󠄁向により五月󠄁中止となる。

◇昭和五年一月󠄁、「國語ノ整理改善ヲハカリ、ソノ促進󠄁ヲ期󠄁スル」と謳つて半󠄁官半󠄁民の國語變革運󠄁動團體「國語協會」設立(會長近󠄁衞文麿󠄁、理事長南弘)。

◇昭和六年五月󠄁八日、文部省はさきに臨時國語調󠄁査會が發表した「常用漢字表」を加除修正して發表(一、八五六字)。

◇昭和六年五月󠄁八日、臨時國語調󠄁査會は、再び、前󠄁囘山田孝雄に指摘された「ぢ」「づ」その他を部分的󠄁に修正した「假名遣󠄁改定案に開する修正」を發表した。文部省はこれを決定案と稱して公表し、國定敎科書に實施を決定したと傳へた。「カナモジ」派、ローマ字派、新聞等が贊成󠄁を唱へたが、一方、反對論がこの時は囂々として起󠄁り、山田孝雄は同年七、八月󠄁數囘に亙り反對論を發表、「文部省の役人が發狂したのではないかとまで疑った」と述󠄁べた。江木千之、松尾捨󠄁治郞、與謝野鐵幹、與謝野晶子、美濃部達󠄁吉、高田保馬、澤潟久孝ら、國學院大學國語問題硏究會等が反對說を發表、また官私立大學敎授󠄁百七十六名連署の建白書、頭山滿、今泉定助、葦津耕次󠄁郞の問責聲明󠄁書等が次󠄁々と提出された。今囘もまた文部省は世論に屈し、假名づかひ變革案は中絕した。

◇昭和九年十二月󠄁廿日、文部大臣の諮󠄁問機關として國語審議會設置(會長南弘、副會長穗積重遠󠄁)。

◇昭和十一年五月󠄁、二・二六事件の直後召集された第六十九議會(廣田內閣)で、「カナモジカイ」理事であり「漢字廢止論」の著者である文部大臣平󠄁生(はち)三郞に對し、加藤󠄁政之助が「文相ハコノ說ヲ今尙心中二堅ク持シ、コレニヨッテ行動サレツツアルカ」ほか六箇條の質疑事項を擧げて文相の答辯を要󠄁求。これに對し、平󠄁生が質疑に答へつゝ長時間に亙つて平󠄁素抱󠄁懷する漢字廢止論を展開強調󠄁したため、貴衆兩院を通󠄁じて、加藤󠄁、深澤豐太郞、金杉英五郞らに依る質疑論難が集中し、遂󠄂に國體明󠄁徵にからんで大きな政治問題にならんとする勢になったが、最終󠄁段階に至り金杉が「是ハ全󠄁ク閣下ガ田舍二於テ職工ヤ番頭ナドニ冗談二御話ニナッタヤウナ事柄󠄁デアルトヨリ外ハ私ニハ考ヘラレナイ。(略)此ノ際奮ッテ御反省ニナリ漢字廢止論卜云フ御考ハ御抛棄ニナルコトヲ(略)謹ンデ御勸吿申上ゲル次󠄁第デアリマスル」と述󠄁べ、これに對して平󠄁生は「十分檢討ヲ致シマシテ、果シテ自分ノ考ガ誤󠄁リアリト云フコトダッタラバ伊澤サント同ジヤウニ取消󠄁スコトニ致シマス」と答へて終󠄁った。

◇昭和十二年九月󠄁、「國語のローマ字綴方」を內閣訓令で發表(いはゆる訓令式)。贊否兩論が盛󠄁んに起󠄁る。

◇昭和十二年十月󠄁廿六日、上田萬年死去。上田萬年は晚年に至りそれまで盛󠄁んに說き來った國語改良論を自ら撤囘し、假名づかひ變革、漢字廢止の不可なる所󠄁以を積極的󠄁に說いた。

◇昭和十三年二月󠄁、日本ローマ字會は小學校の正課に訓令式ローマ字を入れるやう衆議院に請󠄁願。

◇昭和十三年五月󠄁、山本有三は「國語に對する一つの意󠄁見」を發表し、振假名廢止、漢字制限を提唱。これに對し贊否の論が盛󠄁んに起󠄁る。

◇昭和十三年七月󠄁十四日、國語審議會は「漢字字體整理案」を發表。これは昭和六年五月󠄁臨時國語調󠄁査會發表の「常用漢字表」について字體を整理したものである。これに對し「國學院雜誌」が批判󠄁を特輯。

◇昭和十五年六月󠄁、文部大臣官邸に於いて陸軍と國語審議會との座談會開催。

◇昭和十五年十一月󠄁、文部省內に國語課新設、國語審議會と協同で國語統制に當り、戰爭勃發と共に大東亞共榮圈の諸民族に日本語普及󠄁といふ名目で國語變革運󠄁動を推進󠄁した。(この國語課は廿年七月󠄁廢止。)

◇昭和十六年二月󠄁、陸軍と文部省國語課とが「國語國字問題に對する根本方針」につき座談會を開く。

◇昭和十七年二月󠄁、東部防衞司令部付陸軍中佐大坪󠄁義勢は『防牒講󠄁話』を刊行、「漢字は大嫌󠄁ひ」と云ひ、漢字廢止、發音󠄁式假名づかひを提唱。これに對する反論は激しく、六月󠄁、「國學院大學新聞」は反對論を特輯して攻擊した。

◇昭和十七年三月󠄁、國語審議會は漢字制限案「標準漢字表」の中間報吿を發表。後、更に多少の修正を加へて六月󠄁十八日、いよ〳〵決定的󠄁なものとして發表した。これは「常用漢字」(一、一三四字)、「準常用漢字」(一、三二〇字)、「特別漢字」(七四字)の三種に分けられ、次󠄁のやうな說明󠄁が附いてゐた。

常用漢字は國民の日常生活に關係深く、一般に使用の程󠄁度の高いものである。

準常用漢字は常用漢字よりも國民の日常生活に關係が薄く、また一般に使用の程󠄁度の低いものである。

特別漢字は皇室典範、帝󠄁國憲󠄁法、歷代天皇の御追󠄁號、國定敎科書に奉揭の詔勅、陸海軍軍人に賜はりたる勅論、米國及󠄁英國に對する宣戰の詔勅の文字で、常用漢字、準常用漢字以外のものである。

 國語審議會幹事長保科孝一は「文部省においても大いに考へてもらひたいといふ陸軍の力強い要󠄁求があったので」(朝󠄁日、四月󠄁五日付)今囘の漢字表が出來たのだと云って、暗󠄁に強權が背後にあるのだといふことをほのめかし、また、「準常用漢字は將來は段々なくして用ひないやうにして行くべきものである」(朝󠄁日、四月󠄁五日付)と述󠄁べた。これに對し猛烈な反對論が起󠄁り、宗敎雜誌「大法輪」は同年四月󠄁號から十月󠄁號に亙り連續反對論者の所󠄁說を特輯して揭載した。また「公論」「東亞文化󠄁圈」「日本及󠄁日本人」「理想日本」「國學院大學新聞」等もそれ〴〵反對論を揭げあるいは特輯した。主󠄁なる反對論者は、山田孝雄、澤潟久孝、林古溪、服󠄁部嘉香、島田春雄、藤󠄁田德太郞、高田眞治、鬼塚明󠄁治、森本忠、大西雅󠄂雄、上司小劍らであった。各新聞もそれ〴〵社說に於いて贊否を論じた。中外商業新報は「既に文字としての意󠄁義や感覺を喪失せる不必要󠄁なる漢字を制限することに對しては吾等は贊意󠄁を表するものであるが、漢字は既に日本の字となって、日本文化󠄁と密接不離の關係にある。(略)漢字の知識なくしては日本の古典を學ぶに難く、從って日本思想の涵養󠄁に重大な支障となる。無學なる婦󠄁女子と(いへど)も漢字を以て表現すべき言語に習󠄁熟してゐる。既に言語があって漢字がないのは矛盾である」(六月󠄁十九日付)、「凡そ言語に於ては歷史を無視した合理化󠄁はあり得ない。(略)文部當局の改革方針が、專ら便宜主󠄁義、時局便乘主󠄁義に傾いて、國語の尊󠄁嚴と愛護に考慮を拂ふこと少きを遺󠄁憾とする」(八月󠄁十九日付)と二囘に亙り反對論を唱へた。朝󠄁日新聞は特輯版をつくって明󠄁治以來の國語改良運󠄁動の歷史を敍し、漢字制限の必然性を力說したが、社說の「重要󠄁なる國策となるべき今囘の決定に對しては協力といふ立場以外での自由な討論が許されないこと、もちろんである。巷間未だこれを從來の一機關の試みと混同してゐるごとき反對論が行はれてゐるのは放任され得ぬことに屬するのである」(七月󠄁十三日付)の一節が(いた)く反對論者の憤激を買った。

◇昭和十七年七月󠄁十七日、右の漢字制限に加へるに、字音󠄁假名づかひ廢止、左橫書き實施が國語審議會に於いて決定、發表された。

◇昭和十七年七月󠄁十八日、頭山滿始め十六名の連署に依る國語審議會委員の檢討、國語國字變革反射の建白書が文部大臣橋田邦彥に提出された。

◇昭和十七年九月󠄁、山田孝雄は國語の本質と題して國語國字の變改すべからざる所󠄁以を說く。

◇昭和十七年十月󠄁廿日、創立發起󠄁人五百五十餘名の名を連ねて「日本國語會」が設立(理事長松尾捨󠄁治郞)。

◇昭和十七年十二月󠄁、文部省はさきの「標準漢字表」を全󠄁く改定して公表した。これは常用、準常用、特別等の區別を廢し、字數は二、六六九字である。そしてその前󠄁書きに於いて特に「本表により漢字の機能を發揚せしめることを期󠄁した」「漢字は我國民精神を作興し國民文化󠄁を進󠄁展せしめるのに大きな力となって居り十分これを尊󠄁重しなければならない」等と謳ってゐることでもわかる通󠄁り「漢字尊󠄁重表」であり、さきの審議會案とは全󠄁く精神の異るものであった。

◇昭和十八年二月󠄁、每日新聞は左橫書きの廣吿は受󠄁け付けないと決定、六月󠄁、朝󠄁日新聞も同樣の決定をなし、その他各新聞もこれに同調󠄁。

◇昭和廿年八月󠄁十五日、日本降伏。十一月󠄁、讀賣報知新聞は「漢字を廢止せよ」と說き、ローマ字採󠄁用主󠄁張(十二日付社說)。十二月󠄁、國語協會、「カナモジカイ」、日本ローマ字會は「國字問題解決策」を協議、マッカーサー司令部へ提出。

◇昭和廿一年三月󠄁、アメリカ敎育使節團來朝󠄁、この前󠄁後マッカーサー司令部に依るローマ字強制の噂が飛ぶ。四月󠄁、土岐善麿󠄁、鬼頭禮藏、平󠄁井昌夫ら「ローマ字運󠄁動本部」を設立。六月󠄁、日本ローマ字會と「カナモジカイ」は漢字全󠄁廢に進󠄁むことに協力、共同聲明󠄁を發表。同月󠄁、文部省內に「ローマ字敎育協議會」設置。同月󠄁、國語審議合內に「假名遣󠄁主󠄁査委員會」設置。七月󠄁、「カナモジカイ」は貴衆兩院に國字問題解決に關する請󠄁願書を提出。

◇昭和廿一年三月󠄁、山本有三が主󠄁唱者となって「國民の國語運󠄁動連盟󠄁」結成󠄁、國語改革を企圖したが、後、自然消󠄁滅。

◇昭和廿一年四月󠄁、志賀直哉は「日本の國語程󠄁、不完全󠄁で不便なものはない。(略)此際、日本は思ひ切つて世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとって、その儘、國語に採󠄁用してはどうか」と述󠄁べて、フランス語採󠄁用を主󠄁張した。そして「六十年前󠄁に森有禮が考へた事を今こそ實現してはどんなものであらう。(略)森有禮の時代には實現困難であったらうが、今ならば、實現出來ない事ではない」と念を入れてゐる。

◇昭和廿一年十一月󠄁十六日、內閣訓令、吿示に依り漢字制限表「當用漢字表」(一、八五〇字) 及󠄁び假名づかひを改定した「現代かなづかい」を公布。

◇昭和廿二年二月󠄁、時枝誠󠄁記は「國語審議會答申の『現代かなづかい』について」と題し批判󠄁を發表、その他前󠄁年から本年、翌󠄁年にかけて、美濃部達󠄁吉、阿部次󠄁郞、津田()()(きち)、今泉忠義、小島政二郞、里見(とん)、辰野(ゆたか)、龜井勝󠄁一郞、福田恆存、高橋義孝、林房󠄁雄らが批判󠄁、反對論を展開したが、進󠄁駐󠄁軍を背景とする文部省、國語審議會はこれらを默殺、受󠄁け答へは專ら「カナモジカイ」員が當ってゐた。

◇昭和廿二年三月󠄁、文部省內に國語課設置、國語の調󠄁査整理統一、ローマ字の調󠄁査、竝びに國語審議會の事務を行ふ。

◇昭和廿三年二月󠄁十六日、內閣訓令、吿示に依り「當用漢字別表」(いはゆる義務敎育用漢字、八八一字)、「當用漢字音󠄁訓表」(音󠄁訓の制限)を公布。

◇昭和廿三年十二月󠄁廿日、國立國語硏究所󠄁設置(所󠄁長西尾實)。所󠄁轄は文部大臣。その目的󠄁は「國語及󠄁び國民の言語生活に關する科學的󠄁調󠄁査を行い、あわせて國語の合理化󠄁の確實な基礎を築󠄁くため」とある。

◇昭和廿四年四月󠄁廿八日、內閣訓令、吿示に依り「當用漢字字體表」(漢字の字體改變及󠄁び略字、俗字を正とする)を公布。これは前󠄁年實施の手筈であったが、聯合軍總司令部CIE(民間情󠄁報敎育部)の言語關係擔當官ハルパーン博士に依り「傳統的󠄁な一國の文字は妄󠄁りに變改すべきではない」とて却下されてゐたもので、ハルパーン博士が解任歸國後直ちに公布されたのである。

◇昭和廿四年六月󠄁、國語審議會改組(會長土岐善麿󠄁)。從來は文部大臣の諮󠄁問機關であったが一躍󠄁建議機關となる。

◇昭和廿五年六月󠄁、國語審議會は「國語白書」と銘うって「國語問題要󠄁領」を發表、言語生活の現狀は混亂の極にあると前󠄁提し、これを救ふ道󠄁は國語を易しくすることにあると說く。

◇昭和廿六年五月󠄁廿五日、內閣吿示に依り「人名用漢字別表」(九二字)を公布。これは廿二年改正戶籍法に依り出生兒の命名は「當用漢字」及󠄁び平󠄁假名、片假名に限ることになり、民間から憲󠄁法違󠄂反の聲が起󠄁り物議を釀した事に對處して出されたものである。音󠄁訓の制限はない。

◇昭和廿八年二月󠄁、小泉信三は「日本語」と題する論文發表。漢字制限、「現代假名づかい」に反對。

◇昭和廿九年三月󠄁、文部省は國語審議會の「當用漢字審議報吿」(いはゆる「當用漢字補正案」)を發表。これは、さきに當用漢字完全󠄁實施を宣言した各新聞が自繩自縛に陷り、「當用漢字」增加を要󠄁求、廿八字の追󠄁加を見たが、「カナモジカイ」員らの猛反對に遭󠄁ひ、別に廿八字を削󠄁つて「將來當用漢字の補正を決定するさいの基本的󠄁な資󠄁料となるもの」として棚󠄁上げとしたものである。但し新聞は實施、敎科書には使用させない。

◇昭和卅年十月󠄁、福田恆存は「國語改良論に再考をうながす」と題して論文を發表、「現代假名づかい」に反對。これに對し十二月󠄁、金田一京助が反論。更にこれに對し卅一年二月󠄁、福田は「再び國語改良論について私の意󠄁見」を發表。五月󠄁、金田一は「福田恆存氏のかなづかい論を笑う」と題して再び反論。これに對し七、八月󠄁に亙り福田は「金田一京助老のかなづかひ論を憐む」と應酬。これは福田、金田一論爭として話題にのぼった。卅一年五月󠄁、太田行藏は「日本語を愛する人に」を刊行、右の論爭に於ける金田一論文の字間行間にある卑しいものを(てき)(けつ)して論難した。

◇昭和卅三年四月󠄁、ローマ字論者、「カナモジ」論者らが主󠄁體となって、漢字廢止、國語表音󠄁文字化󠄁を企圖する團體「言語政策を話し合う會」を作る。

◇昭和卅三年十一月󠄁、國語審議會は「送󠄁りがなのつけ方」を文部大臣に建議、これに多少の修正を施して翌󠄁卅四年七月󠄁十日、內閣訓令、吿示に依り公布。これは建議當時日本文藝家協會が先づ反對、績いて各方面から盛󠄁んに反對論が出たが、文部省は反對論を無視して實施したものである。

◇昭和卅四年十一月󠄁、送󠄁り假名問題をきっかけとして、戰後文部省、國語審議會が行って來た國語政策に反對して反省を促さうとする作家、詩人、評󠄁論家、學者、國語敎師、新聞人、財界人等を糾合した「國語問題協議會」が誕生(理事長()(ばま)(とし)())、國語破壞政策を監視し、且つ國語の正常化󠄁を推進󠄁することとなった。

(竹內輝芳・記)

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