國語問題早解り  下


sc 恆存     



  ある親子が連れだつて百貨店へ買物に行き、エスカレーターで呉服賣場の二階に顏を出した瞬間、娘の方が「あら、どうしてかしら?」と呟いた。母親が「何が?」と問ふと、娘は柱に貼つてある紙を指さして「おしやれは終りだつて」と言ふ。母親もそれを見て、「あら、本當に」と言つたが、次の瞬間、親子とも自分達の誤讀に氣附いて、「なあんだ」と笑ひ出した。その紙には全部假名文字で「おしやれはおり」と書いてあつたのだ。つまり「おしやれ羽織」なのである。これは實話である。
  もう一つ實話を紹介する。私は大磯に住んでゐるが、電報は局で受けると直ぐ電話で知らせて來て、配達は他の郵便物と一緒に後廻しになる。ある日、その電報著信の電話が掛つて來て、家内がそれを聞き、怪訝さうな顔をして私に傳へてくれた。「十日の株・危險・休會・二時より・西村」といふのである。これは私にもさつぱり解らなかつた。私はこれまで投機をやつた事は無いが、西村といふ人が福田はそれをやりさうな男と陰で心配してゐてくれて、十日は危險だから、その日は買ふなと言ふのか、あるいはその前に買つてしまへと言ふのか、それにしても休會とは何だ、とにかく餘計なお世話である。いや、誰か投機家が大磯にゐて、その人宛ての電話が私の所へ舞ひこんだのではないか、さうだとすると氣の毒だと、多少は氣になつたが、そのまま忘れてしまつた。數時間後にその電報が配達されて來たので、宛名を確かめると間違ひは無い。文面も電話のとほりである。もちろん片假名で一〇ヒノカブ キケンキユウカイニジ ヨリ」ニシムラとある。狐につままれたとは正にこの事である。いたづらにしては意味が無さ過ぎる。が、それはいたづらではなかつた。十數分を要したが、とにかく私はそれをやや正解した。文面には一字の誤りも無い。といふ事は、表音的には正しいといふ事だ。が、それを表意文字に直すと次のやうになる、「十日の歌舞伎研究會・二時より・西村。」が、これはやや正解であつて、嚴密には正解ではなかつた。當日、西村氏に會つて、電報で面喰つた話をしてゐるうちに、同氏が「歌舞伎研究會」を「歌舞伎研」と略し、後は「九階」と場所を示したつもりであつた事を發見したのである。全く御丁寧な話だ。
  私が西村氏を東寶の西村氏と氣附かなかつたのは、一つには東寶の西村氏が東寶の事を考へてゐる程に私は始終東寶の事を考へてゐなかつたからでもあるが、のつけに「株」の一語で兜町に引きずりこまれてしまつた私の意識は、數日前に帝國ホテルで會つた西村氏にまで手が屆かなかったためである。それにしても私は改めて表意文字のありがたさに感謝せざるをえない。
  1 株・危險・休會
  2 歌舞伎・研究會
  3 歌舞伎研・九階
  この三樣の意味が表文字の片假名では一様にしか表示されないのである。もちろん次のやうに書き分ける事は出來る。
  1 カブ キケン キユウカイ
  2 カブキ ケンキユウカイ
  3 カブキケン キユウカイ
  だが、それでも、やや讀み易くなつたといふだけで、とても漢字のやうに明快にはゆかない。第三行の「キユウカイ」はその次の、二時より」を讀むまでは「休會」と讀み誤りかねない。それより何より似たやうな文字を一つ一つ拾ひ讀みしなければならぬ煩しさは、表音文字の免れがたい弱點で、「御酒落羽織」を「御酒落終り」と讀み違へるのもそのためである。表音主義者は慣れればよいと言ふ。嘘を言つてはいけない。假名文字論者松坂忠則氏の口まねではないが、私は學生の頃、餘り豐かでなかつたので、本代を稼ぐために小石川郵便局の年賀郵便臨時傭ひをやつた事がある。あの宛名の仕分けは漢字なればこそで、五十に近い縣名がもし假名で書かれてあつたら、時間も掛るし、第一、神經が疲れて仕方があるまい。
  ここ一二年、郵便物の遲配が問題になつてゐるが、この春、それについて「利用者懇談會」といふのが開かれた。ある百貨店の代表者が、宣傳廣告のために出した郵便が遲れて役に立たぬと文句を言つたところ、板野郵政省郵務局長はさんざん詫びを言つた後で次のやうに答へてゐる、「最近、宛名書きを機械で行ふ所が多くなつてをりますが、假名文字なので扱ひにくくて因つてをります。これも遲配の原因の一つですので、皆樣の方でも考へて戴きたいと思つてをります、」と。必ずしも逃口上だけではあるまい。局における仕分けの際はもちろん、配達にも不便である事は容易に察せられる。それでも、なほ慣れさへすればと言ふであらうか。それなら總選擧の時、新聞に出る全國の候補者名簿や當選者名簿を想起してもらひたい。あれが全部假名であつたら、誰も覗く氣がしなくなるであらう。大衆のために難しい漢字を止めろといふ民主的國字「改良」運動が、結果としては彼等を政治から遠ざける事になる。
  くどいが、もう一つ例を擧げる。昭和三十五年一月日本生産性本部で「表音文字と機械化に關する調査」の結果を發表してゐるが、その「用途」の項を見ると、調査對象百四社のうち、一般文書の作成に假名文字タイプライターを用ゐてゐる會社は一つもない。傳票作成のためといふのが七十九社、その他は帳簿、宛名、領収書、納品書などのためである。またテレタイプといふのがあるが、これほ漢字も使へるので、調査對象百七十六社のうち百社が漢字假名交り文を用ゐ、假名文字だけを用ゐてゐるのは四十二社、ローマ字だけが二社、その他は各種の機械を併用してゐる。そればかりではない、そのテレタイプを打つタイピストから次のやうな要求が出てゐる。といふのは、打つ場合は全部假名文字にする場合でも、その元の原稿はそれでは困る、「假名の場合、特に片假名の走り書は、字體が崩れ易いので、讀みにくく、また讀み誤る事が多い。だから、通信文の原稿には假名だけのものよりも、漢字假名交り文の方が意味が取り易いから良い」といふのである。
  以上の事から得られる結論は、表音主義の利點として擧げられる事務能率の向上とか近代化の促進とかいふ事が、いづれも根據の無い迷信であるばかりでなく、反對にその障碍になつてゐるといふ事實である。それに關して表音主義の犯した過ちは二つある。第一はタイプライターといふ、西洋の表音文字のために發明された、それももう直ぐ前世紀の遺物になつてしまふやうな機械を、まるで近代文明の象徴のやうに考へ、それが永遠に存續してそれ以上のものは發明されぬと思ひこんで、それに合ふやうに國語の表記法を變へようなどと愚かな考へを懐いた事である。發明といふのはすべて西洋が行ひ、日本はそれをまねするだけで、日本人が日本の現實に適應した發明をしてもよいのだといふ事に思ひ及ばなかつたのであらう。
  それにしても迂闊な話で、今は既に漢字テレタイプといふのが出來てゐて、主な新聞社はすべてこれを使つてゐるといふ世の中である。この機械には現在でも約二千五百の漢字が仕込まれてゐる。地方支局では記者の原稿を漢字でも假名でもそのまま紙テープに穴を開けて打ち、そのテープを送信磯に掛けて本社に電送する。本社の受信機はそれを受けて紙テープに穴を打つ。今度ほそのテープを「飜譯機」に掛けると、穴の配列に随つて、最初に記者の書いたとほりの文字が再生されるのである。さらに、これをモノタイプに掛けると、活字は人手無くして製造され、箱の中に竝べられ、印刷を待つばかりになる。すべてオートメイションである。しかも、将來は活字製造の要らぬ寫眞植字が漢字テレタイプに取つて代るかもしれない。いや、それどころか、最近、用ゐられ始めた電子複寫機と同じ原理の電子印刷機が、おそらく十数年のうちに實用化せられるであらうといふ勢ひである。何も舊式な假名文字タイプ、ローマ字タイプなどに義理立てする必要はあるまい。もつとも、それだからといつて、私達は事務能率のため一部に假名文字が行はれる事に反對などしはしない。假名文字どころか繪文字でも記號でも結構で、それが通用し、それが便利な分野は確かにある。ただそれを本位にして國語全體の表記法を變へてはならぬと言つてゐるだけだ。
  表音主義者の犯した第二の過ちは、文字は專ら書くためのものと思ひこんで、それが實は讀むためのものである事を忘れてゐる事である。人間が文字を書くのは、それを他人に讀ませるためである。書は讀を前提として成立つ。随つて、文字は書き易い事よりも讀み易い事を目的とせねばならない。文字の能率は讀む能率が主で、書く能率は從である。右に擧げた種々の例は、表音文字が讀む能率において表意文字に劣つてゐる事を立證してゐる。
  それは單に能率や速度だけの問題でほない。讀者の意識における觀念形成力といふ點についても、表音文字は表意文字の敵ではない。たとへば、「ス」と書くより、「巣」「洲」「酢」「素」と書いたはうが、また「ツキ」と書くより「月」「突き」「附き」「築」と書いたはうが、私達はその觀念を明確鮮明に把握できる。ここに表音主義の犯した過ちの第三がある。といふのは、西洋で表音文字を用ゐてゐるからといつて、日本語にはそれが不適當であるといふ國語特有の性質を、彼等は無視してゐるか、氣附かずにゐるのである。いや、西洋でも表音文字にはそれだけの限界があり、その限界を逃れるために、彼等は表音文字を發音どほりにではなく用ゐてゐる。表音文字を使用する事と、それを表音的に用ゐる事とは別事である。
  これは既に度々書いたことであるが、國語の音韻體系が單純で、大部分の言葉が二音節語か三音節語なので、その組合はせにもおのづと限りがあり、同音語、類音語が甚だ多いのである。同音異義語といふと、人々は直ぐ漢語の罪を鳴すが、それこそ逆恨みといふものである。なぜなら、漢語の本國における音韻はもつと複雜であつた。それを日本の音韻の單純なのに合はせ、日本化してしまつたので、同音異義語が殖えたのである。漢語の同音異義語に文句を附ける前に、日本古來の和語が既にさうである事を反省してみるがよい。右に擧げた「巣」「洲」「酢」「素」や「月」「突き」「附き」「築」だけでも十分と思ふが、大げさに言へば、和語のどんな言葉を採上げても、それと同音異義の言葉が立ちどころに一つや二つ思出される有樣である。「病む」「止む」・「神」「上」「紙」「噛み」・「切る」「著る」・「摘む」「積む」「詰む」・「爲る」「擦る」「刷る」・「剃る」「反る」「逸る」・「墨」「隅」「澄み」「濟み」・「雁」「狩り」「借り」といふ具合に、假名で表記すれば全く同字の言葉が幾らでも出て來る。そのほかに全く同音ではないが、よく似た類音語といふのがある。たとへば、任意に一音節「き」を採り、その上に、これまた任意の一音節を持つて來ると、それぞれ語をなすといふ有樣である。「あき」(秋・室)・「いき」(生・粋)・「うき」(浮・憂)・「おき」(沖・置)・「かき」(柿・垣・牡蠣)・「きき」(聞)・「くき」(莖)・「こき」(濃・扱)と、これも切りがない。二音節語に限らず三音節語でも同じである。「かすむ」(霞)・「くすむ」(燻)・「すすむ」(進)・「ぬすむ」(盗)・「やすむ」(休)とか、「あたる」(當)・「いたる」(至)・「かたる」(語)・「きたる」(來)・「たたる」(祟)・「にたる」(煮・似)・「ねたる」(寐)・「ほたる」(螢)とかの類音語があり、これらを假名で表記すれば、類字語になる。
  それらは、會話においては高低があるために、讀書においては漢字を當ててゐるために、同音、類書であることが氣附かれずにゐるだけだ。漢字が煩しいなどとは、全く忘恩の言の甚だしきものと言ふべきである。表音主義は簡單にこれらの同音語、類音語を整理すればよいと言ふ。そんな事をすれば、國語が破壊されてしまふ事は火を見るより明かな事だ。前囘に國字問題、國字革が、結果としては國語問題、國語改革にならざるを得ぬと言つたのはその意味においてである。
  それにしても、漢字が習得に難しく、私達にとつてかなりの負擔である事は否定しえない。が、難しいといふ事は、これを廢する理由にならぬ事も、また同樣に否定しえぬ事實である。國語國字に限らず、たとへそれがいかに難しい事でも、必要と價値に關るものなら、それを身に附けねばならぬし、また事實さうしてもゐる。歩くよりは自動車の運轉の方が難しいが、それを覺えれば、後は色々便利であるとなれば、人はそれを學ばうとするのである。漢字の場合も同樣ではないか。それを習得し書き分けるのは難しいが、一度それを覺えてしまへば、讀む能率においても、我々の観念や思考を明確にする上にも、大層便利なものである事は確かなのである。さうと決れば後は習得において、それを少しでも易しくする方法を考へたらよいので、要するに、すべては教育技術の問題になる。
  それを、表音主義者は、國語教育に時間を掛けるのは無駄だから、その暇に算數、理科、社會の勉強をしろなどと愚かな事を言ふ。おかげで現在國語の授業時數は諸外國の半分しか興へられてゐない。これは大變な事である。言葉や文字は觀念形成や思考の「道具」であつて、これをおろそかにしておいて、他の教科の成績が上る譯は無いのである。
  難しいといふ事と關聯して、もう一つ言ひ添へておきたい事がある。表音主義者は發音と文字とがずれてゐる事を不合理であると言ふ。が、それは難しくあつても不合理ではない。それを不合理と思ふのは「文字は發音を表すべし」といふ前提を鵜のみにしてゐるからだ。が、それは表音主義の原理であつて、文字そのものの原理ではない。しかも、表音主義の原理が最も勝れてゐて合理的だといふ論理的根據はどこにもない。それは固定觀念であり、迷信である。さう言へば、漢字や歴史的假名遣が難しいといふ事さへ迷信に過ぎない。一體難しいとはどういふ事を意味するのか。私に言はせれば、それは單に複雜といふ事ではなく、不合理といふ事であり、不合理なるがゆゑに難しくなつてゐる場合を言ふ。國語表記に表音主義を適用すれば、どうしてもさういふ結果になる事、以上に述べたとほりである。
  が、戰後の表記法改革は、なほ始末に惡い。なぜなら、それは表音主義の原理に基づいて行はれたものであるにもかかはらず、それに徹し切つてゐないからである。それゆゑ、表音主義を國語表記に適用したための不合理と、それに徹し切つてゐないための不合理と、両者が掛け合はされ、ますます不合理なものとなり、それゆゑ複雜になつてゐるのだ。したがつて、現状は漢字廢止ではなく單に漢字制限に過ぎず、部分的には歴史的假名遣も殘つてゐるといふやうな逃口上に、人々は騙されてはならない。一見、それは穩健な中道主義的妥協案に見え、それを攻撃する私達の方が不寛容で頑固で感情的に思はれるかもしれない。だが、實際はさうではない。それは現状の矛盾、不合理、混亂を整理すると、どうしても表音主義に徹するよりほかに仕方の無いやうなものなので、だからいけないと私達は言つてゐるのである。
  もちろん、私達は舊に還れと言つてゐるのではない。ただ表書主義の原理を撤囘せよ、少くともそれを檢討せよと言つてゐるのだ。國語の特質を考へ、その合理性を破壞せぬ限り、表音的である事は一向さしつかへない。部分的に表音的である事は結構なので、いけないのは原理としての表音主義なのである。第一、國語表記は昔から假名といふ表音文字を表意文字の漢字と併用してきたではないか。私達が表意主義を主張してゐるなどと誤解しないで戴きたい。




* 原著表記でJIS規格に無い文字(我々の「々」に當る字)は止むをえず「々」に替へました。




(本文「國語問題早解り」は新潮文庫の『増補版・私の國語教室』(昭和五十年四月刊、絶版)に載つてゐましたが、文春文庫版の『私の國語教室』および『sc恆存全集』(兜カ藝春秋刊)には洩れてゐます。本掲載は著作權者の許可を得てゐます。無斷轉載を禁じます)




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