第七十八囘國語講演會
平成十八年五月二十三日 於日本倶樂部


實踐「いろは歌」一千首
                                      
中山典之



(司會) 會員の中で、わ行の[ゐ]と[ゑ]が書けない、解らないといふ人が殖えてゐるといふことに危機感を持つてゐる人がゐます。私も折あるごとに人に「ゐ」と「ゑ」が讀めるか、書けるかと訊いてゐます。すると、なんと國の官廳の局長までやつた人もわからなかつた。習つてはゐる筈なんですが、それほど縁のない字になつてしまつた。これはやはり五十音圖の復活をきちんとやらなくてはいけない、その爲には「いろは歌」がよからう、「いろは歌」の實踐と云へば、この中山先生が今や日本の第一人者、そこで講演をお願ひした次第です。中山先生は日本棋院の棋士で六段、海外に二千人ばかりの御弟子さんを御持ちであると伺つてをります。日本棋院の中では、異色の活躍をしてをられます。


(講演)
御紹介にあづかりました中山典之(のりゆき)と申します。碁をやつてをられる方なら大抵の方が私をご存知でせうが、かういふ學問的な世界で話をするのは初めてです。よろしくお願ひ申しあげます。ここに所謂「いろは歌」を竝べましたが、三年ほど前、宇野精一先生の御講演を承つたことがあります。その時に仰つてをられたのですが、イギリスのブリタニカ百科事典は大變權威のある百科事典ださうです。その中にアルファベットといふ項目がある。それによりますと、世界に百の國があれば百の言語がある。民族が百あれば百のアルファベットがある。しかし、そのアルファベットが美しい歌で綴られてゐるのは日本だけである。かう書いてあるさうです。宇野先生が仰つたのですから間違ひない。してみると、いろは歌といふのは世界に冠たる日本の財産なのです。それを聞いた時、そのイギリス人の如何にも羨ましさうな顏が想像されるわけです。

例へばABCDEFG ……は歌になつてゐません。意味をなしてゐませんから。「ABCD、EFG」といふ歌は有るには有りますが、單なるメロディーでね。日本の方は、ここにありますやうに、色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ有爲の奧山けふ越えて 淺き夢みじ醉ひもせず立派な歌です。七五調です。七字五字、七字五字とありますが、當時の日本語は「ん」といふ音が無かつたのですね。從つて、「わがよたれぞ」だけ七五調がちよつと缺けてゐるんです。これは六つしかありません。しかし昔のいろは歌の作者は誠に巧妙なもので、これでよろしいんです。色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ――やゝ間があつて、常ならむ。ここが破調になつてゐるのが、少しも苦にならんわけです。面白いですね。 この歌は一般の人々は弘法大師作と錯覺してゐるんですが、事實、さう傳へられて來ました。しかし、この歌が現れたのは平安時代の中期であり、今から千年ぐらゐ前なんですね。奈良時代の弘法大師には全く關係が無いんですね。詠み人知らずの名歌なのです。

爾來千年、この歌は日本語のアルファベッド的な役割を果して傳へられて來た譯です。今は全く廢れてゐます。何故かと云ふと、このわ行の有爲(うゐ)の奧山の「ゐ」ですね。これと、醉(ゑ)ひもせずの「ゑ」が死刑にされてしまつた。誰が死刑にしたのか知りませんが、この宇野先生の講演を聞いたときには進駐軍のマーカット教育局長とか云ひまして、「ゐ」は、あいうえおの「い」と同じである、「ゑ」は「けふ越えて」の「え」と同じだから必要がないと。しかし亂暴な話があるものですね。千年も續いて來た日本の言葉をね。だから、もし將來アメリカと戰爭が起きて日本が勝つたら、英語のXやQは要らない、廢止せよ、とかうやる(笑)。そんな事云へませんよね。例へばQなんて、ほんとに少ないですよ。 queen とか question とか quite とか。重要な單語だといふ印がついてゐるのは四つか五つ。Xに至つては本當に無いんです。そんな亂暴を容認したわけですから、非常に不可解千萬な譯です。

それにしても千年來傳はつて來たこの歌が消えるといふのは誠に不思議なことでして、これも三年前に宇野先生の御講演を聞いた時に、宇野先生は東京大學の文學部の學生を前に白い紙を配りまして、「諸君、いろは歌を書いて下さい」と申された。宇野先生は、その子たちの學力がどれくらゐか知りたかつたのです。答案をまとめて點檢したところ、略々完全に書けた人が三分の一、白紙答案が三分の一、後の三分の一は怪しげなことを書いてきた。私は愕然としましたね。六十五年前には――私ただ今七十三歳ですが、小學校一年生の三學期になれば、いろは歌などは全員が知つてゐたものなのです。これを以て今の日本の教育を論じると、現今の東大生の學力が昔の小學校一年生の學力に若(し)かず――ある意味ではさう云つて差支へないと思ひます。不思議な事があるものです。例へばイギリスの中學生は四百年昔のシェークスピアを讀めますね。日本の大學生は七十年前の夏目漱石が讀めない。これだつて實に憂慮すべきことなんですね。

とにかく、いろは歌といふのは國民的名歌で、私がいろは歌に氣づいたのは恐らく三歳か二歳か一歳か、母親の背中で聞きました。子守歌代りです。それに氣が附いたのは、ずつと後の小學校四年生の頃、唱歌の時間に、昭憲皇太后の御歌を習ひました。明治大帝の御后でいらつしやいます。こんなメロディーです。私は聲が惡くて申し譯ありませんが歌つてみます。 金剛石も磨かずば 珠の光は添はざらむ 人も學びてのちにこそ まことの徳はあらはるれ(拍手) 私はこの歌を習つた時、そのメロディーを、どこかで聞いたことがあるなあと思つて家に歸つて母親に尋ねたんです。今日、かういふ歌を習つたんだけど、どこかで聞いたやうな氣がする、お母さんに教はつたのかな、と云ひますと「あゝそれは越天樂(ゑてんらく)だよ。大昔から宮中に傳はつてきた笙(しやう)、篳篥(ひちりき)などの樂器で伴奏される雅樂の越天樂でせうよ。」私は、はつと氣が附きました。二歳か三歳の時に聞いた、いろは歌。そのメロディは昭憲皇太后御歌のメロディとそつくりだつたんですね。 色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有爲の奧山けふ越えて ……(唄)
實に千年くらゐ昔から傳へられて來た日本の歌なんですね。大和民族のバックボーンと云つてもいいやうな歌なんですね。それを戰後の馬鹿役人がGHQの威を借りて廢止したんですな。いろは歌は一つの藝術作品であり文化遺産ですから、この歌を小學校の一年生か二年生の教科書に何としても押込むことですね(拍手)。何故かと云ひますと、イギリス人が「アルファベットが歌で出來てるのは日本語だけだ」と云つてくれてゐるんだから、この一點を強引に押しましてね。さうすれば、この歌には「わ行」の「ゐ」と「ゑ」がありますから。子供なんてのは早いものです。理屈拔きに自動的に「ゐ」と「ゑ」を覺えます。これは私が先づ第一に申上げたいことです。

さて、このいろは歌ですが、私は、實は、このいろは歌に類する歌を千ばかり作りました。千も出來る譯はない、と思ふ方は、そこに私の著書がありますから見て下さい。小さい變化まで入れれば二千や三千ではききませんよ。思へば、日本の歌といふのはみな七五調なんですね。俳句でも和歌(短歌)でも長歌でも旋頭歌でも、すべて七五調になつてゐます。それと千年前に現れた今樣といふスタイルですな。後白河法皇が編集された『梁塵祕抄』といふ當時の流行歌を集めた歌集がある。何で「今樣」かと云ふと、「今樣」に對する語は「古風」でせうね。昔から傳へられてゐる和歌です。それに對して今樣です。短歌とか長歌とかの和歌といふのは五七、五七、五七と、ずつと續いて來て、最後を七で締めるわけですね。短歌の場合は五七五七と來て、最後に七で締める。一番短い俳句の場合は五七五で最後の七を省略しますね。この今樣ですが、七五、七五、七五、七五と、七五調を四囘繰返すスタイルなのですな。ここで思ふことは現在でもちよつとした歌は全部七五調四行の今樣體なのですね。例へば、春高樓の花の宴、春のうららの隅田川、待てど暮せど來ぬ人を、月は朧に東山 ……氣の利いた名歌はみんな千古不變の七五調の今樣です。酒は飮め飮め飮むならば、もさうですね。都都逸や謠曲、長唄の類まで七五調ですね。私の母親は小學校しか出てない明治の人間ですが、私をおんぶして山の蔭で草むしりをしながら謠曲の練習をしてゐるんですな。 風早の 三保の浦輪を 漕ぐ舟の 舟人騷ぐ 波路かな 五七調や七五調ですね。思へば私は生れながらにして七五調の中で育つた。これは大事な事なんですね。

さて、いろは歌を作りませう。先づ作つてみなけりや。 ふ、る、い、け、や、 か、は、づ、と、び、こ、む…… いちいち指を折つてこんなことをやつてゐるやうでは全く見込みがない(笑)。喋るのが自然と七五調にならなきや御話にならない。いろは歌なんてものはなかなか出來るものぢやない。これを作つた人は、平安時代から明治になるまでに、私の知る限りでは二人だけですね。 八百五十年間に天下の文人墨客が詠んだいろは歌的な歌は三十首ほどありますが、見るべき歌は二首だけですな。 一つは國語學者の本居宣長先生で、同じ文字なき四十七文字の歌と言ふ立派な歌があります。もう一つは谷川士清(たにかはことすが)といふ、この方も國語學者です。なぜ八百五十年の間に二人しか、二首しか出來なかつたのか不思議に思つて考へたことがあります。私、思ひますに、いろは歌を作れたであらうと思ふ方が少なくとも三人はゐます。一人は松尾芭蕉、もう一人は井原西鶴、そして太田蜀山人です。この三人なら出來ない筈はありません。必ずや試みたと思ひます。宇野先生も若い頃試してみたと承りましたが、この三人は試みたに違ひない。殘念ながら、いろは歌を超える歌が出來なかつたのでせうね。だから發表を控へたと想像してゐるんです。私の樣な無名な人間は平安時代のいろは歌の作者と竸走する必要もないから、敢へて挑戰状を叩きつけて平氣でゐます。ただ、いろは歌の中にも一か所だけ文法上の間違ひがある。ご存知でせうか。「我が世たれそ」の「そ」が間違ひなのです。「たれ」に「そ」と續けた日本語は一つもない。正しくは、我が世たれか常ならむ、と「か」でなきやいけない。これは江戸時代の黒川春村とか、明治になつてからの有名な大矢透先生。この方が嚴しく指摘してをられます。さう言へば「たれか故郷を思はざる」「たれか夢なき」などと今でも「か」であるべきなんですね。だけど、こんな素晴しい歌、それは判つてゐるけど、まあまあ事を荒立てないでといふので千年經つた。日本人は割に寛容ですから、A級戰犯をでつち上げていつまでも許さないといふ國とは違ひますからね。さういふ風に歴代の國語學者がいろは歌の失策をけしからんといふのですが、ではどう直したらいいかといふことに言及した方は一人もゐません。古今の名歌を添削するなどといふ大それたことは出來つこないんですから。でも千年間も言はれつ放しでは平安の作者が氣の毒でしよ。そこで僭越ながら小生が直しました。これが實に面白いんですよ。

私がいたづらしてみた譯ですね。 まづ、いろは歌から修飾語とか助詞、接續詞など外せるものを外して必要な單語だけを殘すんですね。すると次の樣になります。
いろ○にほ○○ ちり○○○ ○○○たれ○ つねならむ うゐのおくやま ○○こえ○ あさきゆめみ○ ゑひ○せす。

すると、は、へ、と、ぬ、る、を、わ、か、よ、そ、け、ふ、て、し、も、の十五字、それと、ん、の十六字が自由に使へますね。「か」は大矢透先生の命令で二行目の「たれ」の後に入れて「誰か」とする事に決つてゐますし、「ん」は完全な七五調四行の今樣體にする爲に缺かせません。そして「か」以外の十五文字をジロリジロリと眺めてゐたら、アーラ不思議や、いろは歌が次の樣に變化したのです。
にほへるいろは ちりぬとて 匂へる色は散りぬとて よをわふたれか つねならむ 世を侘ぶ誰か常ならむ うゐのおくやま けんそこえ 有爲の奧山嶮岨超え あさきゆめみし ゑひもせす 淺き夢見じ醉もせず

口で言へば簡單ですが、私はこの「いろは歌の替歌」を作るのに丸三日かかりました。この他にも、 匂へる色は 怎麼生と 世を侘ぶ誰か 常ならむ 有爲の奧山 夢路超え 焦りて醉ひぬ 景色見ず などと十首ほど作りましたが、何れも大同小異。前記の歌がまあまあ、本歌の味を殘してゐる樣なので決定版にしました。建築と同樣で改築は新築よりも十倍ほど骨が折れるらしいのですが、文法上の間違ひを取除くといふ作業だけは何とか成功した譯です。

いろは歌の本歌から少し距離を置けば、作るのが幾分樂になります。それは、改築ではなく新築ですから、ある程度自分勝手に設計することが出來ます。例へば、 平成いろは歌
色は空なり すべて無爲 常に非ざる 世を侘びぬ み佛まかせ 稚兒の夢 重き縁知れ 誰そや醉ふ
平安時代の本家のいろは歌は、涅槃經を和譯したと言ふ説があるが、私の平成いろは歌は色即是空諸行無常で般若心經の譯文みたいですね。本家の歌は莊重難解であり、分家の方は輕快平明とでもなりますか。まあ、私の歌は文法上の間違ひがないと言ふ一點に關してだけは、はつきりと古歌に勝つてゐる譯です。

かうした次第で、時間と根氣さへあれば、いろは歌の替歌だけでも山ほども出來ます。森羅萬象ことごとく今樣になりますね。面白いでせう。皆さん、やつてみる人はゐないですか。 とは言つても、實はこれ大變なんですよ。私もねえ、一番最初に作つた時はずいぶんと時間がかかつた。六十一歳の還暦を迎へた日に、還暦記念に圍碁のいろは歌を作らうと思つて始めたんですが、どうしても出來ない。あと一字だけ處理すれば完成と言ふ所までは、まあ比較的樂に行くんですが、どうにもならない。三時間熟考しても出來ないから、もうやめたと放り出さうとした瞬間に一つだけ出來た。さあ、嬉しくて嬉しくてね。それから要領が分かつたんでせうかね。まあ、出來ること出來ること(笑)。一番短時間で出來たのはたつたの五分で出來ました。オッ、今日は頭がいいな、と思つて、もう一つ作つたら次は八分で出來た。私、氣分惡くなりましてね。出來たやうに見えるけど、出來てないのかも知れんぞ。俺、頭壞れたんぢやないかな、と思つて、その日はそれで止めた。また翌日作つてみたら、今度は三時間かかつても出來ないんで、やつと正常に戻つたのだな、と安心しました。三時間かかつて出來ない時はやめるに限りますね。人間の集中力といふのは三時間が限界だと、私の場合はさうなります。一般の方について論じれば精神集中といふのは五分も保てばいいとこですかね。早い話が葬式の正坐なんか五分持ちませんからね。精神集中してゐる譯だけど。私なんかね。丸二日間くらゐ坐つてられますよ。だつて圍碁の對局中は一生懸命で足がしびれることに氣が附かないんです。私の作つた歌は皆さんの御手もとにあるパンフレットにありますから、これを見て頂くとしましてね。

次に申上げたいのは、どうすれば、いろは歌が出來るか、こんな面白いものはないのですから、それについて御話しします。いろは歌といふのは御覽のやうに七字と五字の組み合せ四行ですから、日本古來の文學にある程度は精通してゐなければなりませんね。特に日本文でございます。和歌、俳句、川柳、都都逸、すべてさういふものは七五調ですから、さういふものに慣れ親しんでなければいけないんです。幸ひといふか、私の親父が俳諧師だつたのです。連歌師。連歌師といつてもなかなか御解りにならんでせうが、俳句を作りますな。一句ね。それに別の人間が七、七と續ける。さうすると二人で作る和歌になります。五七五とやると、相手の方が七七と受ける。それで一つの歌が出來る。それを、ずつと續けるんです。一番少ない數で三十六かな。「歌仙」と申しますがね。「歌仙を卷く」といふ。親父はよく歌仙を卷いてました。これは、いろは歌ではなくて和歌のスタイルですから、これを延々と續けて五七五プラス七七とずーつとやつて十八囘、非常に優雅な遊びで平安時代からあつたやうですが、これも親のことを云ふのは何ですが、名人だつたやうな氣がします。たちどころに出來ます。かういふものを九囘やつて前半を終る。前半が終ると、選手交替して、七七をつけてゐた人が今度は五七五をやる。で十八連で最小單位の歌仙です。これが五十吟に、百吟にと、延々と續くわけです。お互に二人以上で一つの作品を作るわけですから、我がままは許されないんですね。だから相手の附け句が氣に入らなければ、これはちよつとをかしいのぢやないか、と云つて喧嘩になるわけです。すつたもんだして親父はいろいろやつてました。さういふのを見てたものですから、なかなかこれは面白いものなんですね。

この一番最初の五七五を發句と云ひます。二番目のを「脇句」と申します。それで一卷の終りの句を「擧句」といふのです。「擧句の果てに」の「擧句」です。親父は連歌の名人だつたんです。從つて日本語のさういふのは子供の時から見てゐたんです。私はこれを習はうとは思ひませんでしたね。だつて碁の方が面白いもの。しかし今となつては後悔してゐます。やはり習つてあげるんだつたなと。親父に對して失禮な言ひ方ですが、習つてあげるんだつたなと。喜んで教へてくれたでせうね。だけど、習はなかつたから無駄になつたかといふと、さうではないんですね。私は二十年來、ある碁の雜誌で川柳欄を作つて募集してゐるんです。お客さんの川柳が五七五で來ますね。さうすると私が七七と附ける。全く、この歌仙と同じ要領で。例へば「冥土にも 碁會所ありやと墓に問ひ」とお客さんが言ふ。私が「蟻が出て來て有りと答へる」(笑)と附ける。「飽きもせず 大負け小まけで日が暮れる」。これは「夕燒こやけで日が暮れる」を本歌どりした川柳ですね。それに對する句は「烏と一緒に歸りましよ」でしよ。私はそれを變へまして「烏の勝手だ 俺は歸るぞ」(笑)。 これをいろは歌留多にして、去年の秋出版したんです。京都に大石天狗堂といふ百人一首の老舖があつて、私も出版する以上は五百年か千年くらゐ保つものを作りたいと思ひましてね。これが、それでございます。なかなか立派でせう。そこにたくさんありますから、どうぞ。千圓で御座います。宣傳しちやひましたかな。でも、少なくとも、「犬も歩けば棒に當る」「論より證據」よりはマシでせうよ。言葉の遊びで御座いますな。裏には四十八首のいろは歌も附けてサービスしました。

さて、一つは申しましたけども、まづ、和歌俳句、さういふ日本古來の七五調に親しむべきこと、これはいろは歌を作る爲の絶對條件です。二番目は漢文です。宇野先生がここにいらつしやれば大喜びなさるかもしれません。漢字に親しんで漢文を學ぶこと。漢文といふのは實にヴォキャブラリーが豐富になりまして、日本語で一瞬のうちに凝縮したやうな素晴しい表現があるんですよ。 まづ私が漢文を習つてよかつたと思ふのは、漢文を習はなければいろは歌なんか出來ないな、と思ふのは、舊制中學の――私が舊制中學に入つたのが昭和二十年で戰爭が終る年ですね。舊制中學には立派な先生がたくさん居られました。舊制中學二年生の時に飯島忠夫といふ大先生にぶつかつたんです。飯島先生といふのは、私が十三歳の時に、もう八十を遥に越えて居られた。今生きていらつしゃれば百五十歳くらゐですか。勿論江戸時代に生れた大先生です。(板書)この先生は學習院大學の名譽教授で昭和天皇の先生です。昭和天皇に御幼少の頃、國語と漢文を教へた。宇野先生に、あなた漢文をどこで習つたの、と訊かれました。いやあ、習つたなどといふものではないんですが、舊制中學で少し觸つただけです。いやいや、さうは仰られませんぞ。どこかで習はなければ、さういふ文章は書けないはずだ、と仰つた。實は飯島忠夫先生だと申上げたら、宇野先生がちよつと首を傾げられて、をかしいな、年が合ひませんな、あの先生は私らが學生の頃學習院の大先生だつた。先生の御講義なんとかして聞きたかつたのだけれど、學習院は東京大學より遙かに格が上でしてね。さうですか。いい先生に習はれましたなと羨ましがられましたね。

實はその頃飯島先生、戰爭が負けたあとで、長野縣の松代に疎開し、隱居して居られた。その頃、上田中學校の校長が、飯島先生に一週間に一度、上田中學の子供の爲に御講義して下さい、と御願ひして、その時來られたのです。私、運よくその先生に當りましてね。當時は漢文と古文が選擇必修でして、百人生徒がゐれば九十五人までは古文を習つた。源氏物語、枕草子、などなどですね。そつちへ行つてしまふ。漢文を覺えるのは厭だな、といふので一クラスで多くて五人、少なくて三人。一學年で二十人くらゐが飯島先生にワイワイガヤガヤと教はるわけですね。私は飯島先生の授業を四年間受けたんです。これが實に素晴しい授業でした。私が中學へ行つて良かつたと思ふことは、飯島先生の講義を受けたことでした。飯島先生は授業が始まる五分前くらゐに教室に腰掛けて待つていらつしゃる。當時はテレビなんかありませんからラディオが晝休みの校内放送でニュースを流してゐる。たまたま或る時に國會が始まつて天皇陛下の御言葉があつた。昭和陛下の御言葉は、正直に云つてあまり上手な發音ではないなと思つてゐたのです。「私は、本日ここに諸君と一堂に會し、國事を議することを喜びとします」。すると飯島先生が何ともにこにこして聽いていらつしやる。私は飯島先生のすぐ前にゐて、先生に質問しました。「陛下の御言葉は先生の漢文の讀み方にとてもよく似ておいでだと思ひますが、如何でせうか」と云ひましたら、飯島先生は居住ひを正されまして、「陛下には御幼少のみぎり御教へ致しました。陛下は誠に御實直な御性格であらせられ、私が御教へした通りに讀まれます」。それを聞きまして、昭和陛下の讀み方は最高に素晴しいものだつたんだなと子供ながら解つたんです。飯島先生の眞似をちよつとやつてみませうか。こんな調子です。

幕末の漢學者の御講義。 まあ、我々は論語を少々、唐詩も少々習つただけ。孟子、日本外史も少し習つたかな。しかし飯島先生の授業は一言も聞き洩らすまいとしますから、六十年經つた今でも、その授業を全部覺えてをります。何しろ相手が古今の大學者ですから・・・。 唐詩に「顏眞卿(ガンシンケイ)ガ使ヒシテ河隴(カロウ)ニ赴クヲ送ル歌」といふのがある。少し長い詩です。かういふ調子なんです。飯島先生が「中山君、讀んでみなさい」。私が立つて讀む譯ですな。 君聞カズヤ胡笳(コカ)ノ聲最モ悲シキヲ 紫(シ)髯(ゼン)緑眼ノ胡人吹ク 之ヲ吹キテ一曲ノ猶(ナホ)未ダ了(ヲハ)ラザルニ 愁殺ス樓蘭(ロウラン)征戍(セイジユ)ノ兒 涼秋八月簫關(セウクワン)ノ道これ長いんですが、最後まで暗記してゐます。長恨歌百二十行、琵琶行八十八行程度なら今でも出來ますよ。私が記憶力がいいといふことではなくて、子供はみんな頭がいいんです。十で神童、十五で才子、二十過ぎれば竝みの人といふから、私はまだ十三歳で神童の時ですから。もし途中でつかへたり讀み方を間違へたりすると「はい結構です」と着席を命じられ、別の生徒に代る。私が無事に讀上げたとする。「大變よく出來ました。では今度は私がやつてみませう、 君聞カズヤ 胡笳ノ聲 最モ悲シキヲ――」。誠に音吐朗々なんです、八十の老人が。語尾が明瞭です。區切るべきところは區切り、續けるべき所は續ける。そして何よりも作者の意を汲んで情景を想像しながら讀まなきやいけない。飯島先生は決してそんなことは仰いませんが、生徒たる者はそのやうに解釋するんですな。これ恰も「本日、ここに諸君と一堂に會し――」といふ天皇陛下の御言葉と全く同じなんです。我々生徒どもは、陛下の御言葉を聞いてくすくす笑つてゐる。今の陛下のやうに流暢な「私は本日――」――これだつて立派ですよ。明治時代に生れた昭和天皇と、今の陛下は昭和八年生れでいらつしやいます。私は七年生れで一つ兄貴です。敢へて申しますと、昭和天皇の方が百倍くらゐ日本語が出來ます。

さういふことで漢文といふのは非常に大事なものです。この岑參(シンシン)の詩ですね。ここまで來た時に先生が漢文の教科書を机の上に置かれました。涼秋八月簫關道 北風吹斷天山艸崑崙山南 月欲斜今でも覺えてゐますが、「――崑崙山南 月欲斜」(板書)――ここまで來ましてね、飯島先生ちよつと止められました。聲を改めて、「素晴しい風景ですな。見事な表現です」。かうも仰つた。「素晴しい日本語です」。 飯島先生が最初に來た時は、偉い先生とは知らないものだから、生徒はみんな馬鹿にした。こんなちつぽけな老人が來たよ、と興味津々で見てゐた。中學の二年生なんて生意氣盛りですからね。ある生徒が質問しました。「漢文といふのは今の支那語ぢやないですね。それに、行つたり來りして日本語のやうでもありません。日本語でも支那語でもないものを、我々はなぜ習ふ必要があるんですか」。天下の大先達にそんな失禮なことを云つたんですね。それで飯島先生なんて仰つたか。莞爾とされて「あゝ、大變いい質問です。確に漢文は今の支那語とは違ひます。日本語は假名と漢字で出來てゐます。漢字は何萬もあります。假名は四十八あります。假名だけでは日本語になりません。漢字だけでも御覽のやうに理解に苦しむ人が多いでせう。漢字は何千、何萬もあります。が、日本語の大事な部分を占める漢字が解らなくて、何で日本語が解りますか。漢文を學ぶことは、即ち日本語を學ぶことであります」と仰つたんですな。我々はへえーっと恐れ入つてしまつた。それから先生を尊敬するやうになつた。我々は何しろ十三くらゐのガキどもですからね。こんなものを手玉に取るのは先生にすれば簡單なことだ。

これはね、北と南が綺麗なんですよね。北があつて、南があつて、天山山脈があつて崑崙山脈がある。いい對句なんですよね。顏眞卿といふ書道の大家がある。この方が天子樣の御使で西域へ旅行する時の、それを送る歡送會の席で作られたものです。北の方を見れば天山山脈から吹いて來る北風が傍の草を引き千切らんばかりである。目を轉じて南の方を見れば崑崙山脈に月が將に落ちようとしてゐる。雄大なんですね。顏眞卿さんは馬か駱駝に乘つてその間を行く譯です。前方が遥なる西域ですね。後ろは今出て來た長安の都です。なるほど仰られて見ると素晴しい景色だなあと解る譯です。飯島先生が「素晴しい表現だな」と仰るから、生徒も解る譯ですね。「北風吹斷ス天山ノ艸(クサ) 崑崙山南 月斜メナラント欲ス」で、講義が三十秒くらゐ停止した譯ですね。かういふ時は、必ず學期末の試驗か學年末の試驗にこの件りが出て來る(笑)。だから眞面目に授業に出席してゐれば、飯島先生の授業で百點を取ることはいとも易しい譯です。自分のことを申すのも何ですが、私は四年間ずつと飯島先生に百點を頂きました。試驗前になると友達が來ましてね。「今度どこが出るか教へろ」と云ふ。「ここをやつとけよ。必ず出るから」。

何がいいかといふと漢文を習ふと語彙が豐富になるんですね。例へば、「そもさん」ですね。普通の人は九九パーセント知りませんよね。廣辭苑を引けば、ちやんとあります。 まあ、いろは歌。今は五十音で御座いますよね。外國ではそれぞれの國が國語を大事にしますね。獨逸へ行かうがオランダへ行かうがフランスへ行かうが、その國の言葉以外は返つて來ません。日本では驛や空港にローマ字が併記してあります。この頃は韓國語や中國語の案内も書いてあります。これ、ちよつと胡麻すりぢやないかと思ひますね。日本へ來るなら日本語を勉強して來い、と私は言ひたいのですが・・・。逆に私が中國へ行けば筆談が實によく通じるんですね。漢文を齧つたおかげで、竝の中國人よりも漢字を知つてゐますから。

日本語に較べれば英語なんて簡單なものでせう。例へば「あなた」といふ言葉は、日本語には二十も三十もあるでせう。君、お主、あんた、貴殿、お前、汝、先輩、閣下、などなどと。英語には幾つあるんでせうか。唯一つ、YOUがあるだけです。便利と言へば便利ですが、親に向つてもYOU。大統領、大先生に對しても、宇野先生に對しても「お前」とYOU。(笑)味氣ない事甚だしいですなあ。 私はね、外國へ教へに行つて英語で講演しますよ、生意氣にも。舊制中學一年の教科書を幸ひにも丸暗記してゐた。それだけで充分に通じます。ただ、これには條件がありまして、會場にゐるのは全員碁打ちで私の弟子ですから、中山の英語が解らなければ困るんですね。死に物狂ひで聽いてくれる譯です。例へば圍碁の「讀み」についてですが、 I shall begin this lecture by saying that very few persons know how to read・・・ これは超一流の大學教授の英語です。ラフカディオ・ハーンといふ方がいらつしやいましたね。日本名は小泉八雲。日本に溶け込んで日本人になつた人ですが、元はイギリス人ですね。この方が東京大學で初めて講演した時の出だしがこの一節です。私の中學の時の英語の教科書に出て來るんですな。それをふと思ひ出したので咄嗟に拜借して、アイ、シャール、ビギン、ジス、レクチャー、バイ・・・(笑)

これは實に簡單だよ、といふ言ひ方は中學の教科書で習つてゐなかつたんですね。後でアメリカ人に聞いたら、イッツ、イージー、と言ふらしいんです。話し言葉でせうが、イッツなんてそんな蓮つ葉な言ひ囘しは教はつてゐませんから、さて我がキングズイングリッシュは何と言ふべきかと考へ込んだ所、教科書の一節を思ひ出しました。 Nothing could be more simple. (笑) 日本語に譯しますと、かほど易しきことは有るまじ、と言つた樣なものです。格調高き我が英語を聞いてゐたアメリカ人達は一瞬靜まり返りましたが、やがてドッと笑ひ出しましてね、センセイ、さつきまで小學生の英語を使つてゐたのに、急に大學教授になられては非常に困る。ヘルプ、ミイ。(笑)かう言ふ譯ですから、私の英語は實によく通じてゐる。二時間の講演なら、相手は一時間は笑つてゐるんです。私は一時間喋ればいいんだから非常に樂なものです。 たまたま日立製作所の副社長さんが視察に來てをられましてね、「先生大したもんだね、英語で落語をやつてのけるなんて」と目を丸くしてをられました。とんでもない。私は舊制中學一年のリーダーを丸暗記し、四苦八苦してゐるだけなんです。 だけど昔の舊制中學はすごかつたと思ひますねえ。 どうもね、無理矢理今の大學程度の教育をしてたんぢやないかと思ひますなあ。私のゐた中學は不思議なところで、大抵の中學は、戰時中ですから、敵性語の英語なんてまかりならん、と言ふ譯で英語の授業なんてないんです。ところが上田中學では校長が英文學者だつたんです。教頭がまた英語の教師だつたんですね。で言ふ事がいい。英語が判らんやうで戰爭が勝てるか、と。さう云はれてみると確かにさうなんですね。若い英語の教師たちは全員が戰場へ行つちやつて授業が出來ない。そこで校長と教頭が交替で大講堂に生徒を六百人ほど集めまして、This is a pen. ディス イズ の「ズ」が私うまく發音できなくて、教頭が睨んでゐまして、お前は馬鹿か、とののしるんですな。今になつて思へば、そのやうな下等な言語を習ふよりも日本語を習へ、と言ひ返したい心境ですねえ。特に碁學。碁を習へと言ひたいですねえ(大笑)。 結論として、まづ最初に、世界に冠たる「いろは歌」を教へるべしと言ふのが我が主張であります。御清聽、有難う御座いました。 (なかやま のりゆき・日本棋院棋士、六段)