「資󠄁料集」に戾る

文部省の假名遣󠄁改定案を論ず 山田孝雄

(一)今明󠄁治以前󠄁の歷史上の事實を通󠄁觀するに、假名遣󠄁は實際上止む能はざる要󠄁求より起󠄁りたるものなるを見る。卽ち、その假名遣󠄁の起󠄁らむとする前󠄁には、混亂の狀態ありて、心あるものをして統一を企てしめずしてはあらざる狀態にありしものにして、定家假名遣󠄁の起󠄁れるはこれが爲なりとす。次󠄁にはその假名遣󠄁は何を標準として定めたるかといふに、いづれも、その制定者が、正しと認󠄁めたる歷史的󠄁の例證によりて確定を求めたるものなりとす。(略)

 然らば、何が故に、しかく古代の例を以て假名遣󠄁の標準とするかといふに、これ實に文字の根本性質に基づくものといふべし。文字はいふまでもなく視覺に訴ふるものにして平󠄁面的󠄁延󠄁長を有し固定的󠄁のものなり。音󠄁は聽覺に訴ふるものにして流動的󠄁無形のものなり。この故に文字にて記されたる語が一旦成󠄁形すればそれに對する音󠄁が、變化󠄁を生ずることありとも之に對應して文字は變形することなし。而して文字はそが音󠄁字たる場合に於いても、一定の字又は一定の一綴は、決して各一箇づゝの音󠄁を箇々にあらはすに止まらずして、その字その一綴にてあらはされたる言語の平󠄁面的󠄁延󠄁長を有する可視的󠄁固定的󠄁の一定形たるものなりとす。この點は語音󠄁の可聽的󠄁流動的󠄁なるとは頗る趣を異にするものなり。

 從來の論者多くは、この文字と聲音󠄁との特異性を考慮に入るゝことなくして音󠄁文字はたゞ音󠄁の代表なりといへり。されど、そは一を知りて二を知らざるものといふべし。この故に、若し、文字をして流れうつる聲音󠄁につれてたえず變化󠄁せしむべしとせば、文字を用ゐての定形的󠄁可視的󠄁言語は殆ど存せざるに至るべし。この故に、一旦成󠄁立せる文字上の語形は、頗る保守的󠄁のものにして、その一綴のうちに一字を改めてもわれらの可視的󠄁言語は形を破壞せられたる感を起󠄁すに至るものなり。これ外國語にても、無音󠄁の文字をその綴より容易に除くこと能はざる理由なり。(略)

 さて飜りて明󠄁治以來の假名遣󠄁改革運󠄁動を見るにその大規模にして一時燎原の勢あるが如くにして、しかも一度も成󠄁功せざりしなり。(略)

 この種の改革運󠄁動はその前󠄁に紛錯を極めたる事實ありて、それが統一を企つるに至りてはじめて起󠄁るべきなり。今明󠄁治時代以後は確乎と統一の姿󠄁を呈󠄁し來れるものにして、これが統一改革を要󠄁求する國民的󠄁運󠄁動の起󠄁るべき原因なきなり。

 混亂なくしては統一運󠄁動の必要󠄁なきことは三歲の幼兒といふとも之を知らむ。わが文部省はかつて棒引假名遣󠄁を強制して徒らに混亂を起󠄁さしめ國民を害󠄂せしこと少からざりしなり。凡そ政治の要󠄁は中正の道󠄁を進󠄁み、止む能はずしてはじめて行ふを要󠄁諦とす。衆に先んじて言語文字の改革を企つるが如きは行政官の行ふべき事にあらず。況んやこれによりて紛亂を釀し、害󠄂毒を流すに於いてをや。

 されど、餘輩は一切改革すべからずといふにあらず。これを行ふに道󠄁あり。その道󠄁は徐々に之を行ふにあり。何が故に徐々に行ふべきかといふに、國民の十分なる納󠄁得を經たる上にて行はざるべからざるを以てなり。而して國民の十分なる納󠄁得を經る所󠄁以の道󠄁はその改革方法が合理的󠄁基礎の上に立てることを示すことによらざるべからず。而してその合理的󠄁の基礎は何によりて得べきかといふに根本的󠄁調󠄁査を經てはじめて得べきなり。かくの如くして着々進󠄁まば、道󠄁理の正しき限り行はれざらむことはあるべからず。(略)

   *   *   *

 (二)餘は先づこの假名遣󠄁を改定する權能の何處に存するかを知らむと欲す。(略)

 今の國語調󠄁査會の官制を見るに「普通󠄁に使用する國語に關する事項を調󠄁査す」とありて、一種の調󠄁査機關に過󠄁ぎずして、國民に強要󠄁すべき事項の決定をなしうるか否かは疑はしきことなりとす。(略)

 實に言語文字の改革の如きは非常に變態なる事情󠄁の存せざる限りは決して強制的󠄁に行ふべきことにあらず。(略)

 假名遣󠄁を改定する必要󠄁若しありとせば國語調󠄁査會はその必要󠄁なる理由を報吿して十分に國民に知らしむべきものなり。この報吿の類續々として出で、國民がその必要󠄁を十分に感じて後にこそ其の改定の目的󠄁は自然に達󠄁せらるべきものなれ。然るにこれが報吿は吾人未だそのありし事を知らず。(略)

 かくの如き大規模の改革を遽然として一擧に行はむとするが如きはこれ一種のクウ・デタアにあらずや。

 吾人はかくの如きクウ・デタアを行ひてまでも改革を施すべき必要󠄁の存するを知らざるのみならず、かゝるクウ・デタアを行はざるべからざるまでに切迫󠄁せる事情󠄁あることをも全󠄁く知らざるなり。(略)

 かつて文部省が改革を企てし時、その改革に贊成󠄁せしものゝ言論を槪括するに、

一、假名遣󠄁はむづかしきによりて改めむとする說

二、假名遣󠄁は行はれざるが故に改めむとする說

三、假名遣󠄁を正しきものとするは迷󠄁へるなりとする說

四、言語に變遷󠄁あるによりその變遷󠄁に伴󠄁ひて改めむとする說

の四點に歸したりしが如し。今これにつきて意󠄁見を述󠄁べむ。假名遣󠄁はむづかしきものなりといふ說は(略)迷󠄁へるものなり。かくの如き論は全󠄁く感情󠄁論にして何等の根據あるにあらざるなり。(略)

 公平󠄁に考へてわが國語の假名遣󠄁は諸外國語の綴字に比して決してむづかしきものならざるのみならず、英語の綴字などに比ぶれば信に易々たるものなりとす。然るにこれをむづかしといふは要󠄁するにこれを用ゐむと欲せざるものゝ言のみ。若しその人にして信によくこれを知らむと欲せば、一週󠄁間にして國語假名遣󠄁を記憶せしむることを得るは吾人多年の經驗に徵して明󠄁かなり。若し又それが假りに難儀なりとすとも、一國の言語文字をたゞ難儀なりとして放棄するが如きは國民として斷じてあるまじき態度なり。(略)

 假名遣󠄁は行はれてあらずといふ說は事實を誣ふるものなり。卽ち次󠄁の如き諸點は現に行はれてあるなり。(ハ行四段活用動詞の活用の「はひふへ」、形容詞の連用形の音󠄁便の「う」、「ゐ」「ゑ」「を」「ぢ」「づ」等九項目列擧されてゐる)(略)

 而してこれらは國語調󠄁査會の國語假名遣󠄁の改定案の要󠄁部を占むるものなり。吾人はこれらが行はれてあらずとは決して認󠄁むる能はざるなり。(略)

 凡そ正しき事は若し行はれずとせば、よくこれを行はるるやうに努力するをこそ學者識者の任とすれ。

 少數の語に誤󠄁をなすを理由とし他の大多數の正しきものを改むべしとする理由何處に存するか。これ全󠄁くとるべからぬ論なりとす。こゝに於いてそれらの論者のうちには方向をかへて從來の假名遣󠄁は必ずしも正しきものにあらずとする論を生じたり。從來の假名遣󠄁といふものは古來の國語學者が多年の硏究を經て考定せし結果にして學術󠄁上正しと認󠄁められたるものなり。(略)

 文字は表音󠄁的󠄁にすべきものなりと稱して、從來の假名遣󠄁をば歷史的󠄁假名遣󠄁などいふ新名稱を以てこれを呼び、暗󠄁にこれが過󠄁去の廢物なるかの如く世人に思はしめたる疑なきにあらず。されど、文字にしても言語にしてもそれが文化󠄁の存する民族に傳はれる限り歷史的󠄁ならぬものありや。(略)

 假名遣󠄁改定論の最も理由あるさまに見ゆるはたゞこの一(假名遣󠄁は言語の變遷󠄁に伴󠄁って改められるべきものとする說をさす)なるのみ。然れども吾人はこの論に無條件に贊同し得ざる道󠄁理あり。(略)

 第一、文字は社會的󠄁歷史的󠄁の產物なり。

 この故にこれが根柢には國民の精神的󠄁生活の或物が附着してあることを忘󠄁るべからず。これ文字の改廢が破れ草鞋を棄つるが如きものにあらざる第一の事情󠄁なり。(略)

 第二、文字は固形的󠄁のものなり。しかるに聲音󠄁は流動的󠄁のものにして、極端にいへば、時々刻々變化󠄁するものといふを得るものなり。(略)この變遷󠄁止まざる聲音󠄁を寫すにこの固形的󠄁の文字を以てするものなれば、これ如何にしても多少の矛盾衝突の生ずべきは永久に避󠄁くべからざる所󠄁なりとす。

 第三、以上の如くなれば、言文の一致といふ事は實用上の文字を用ゐる限り永久に實現し得られざるなり。この故に言文の不一致はこれ永久的󠄁の事實にして、何人かゞ非常の英斷を以てこれが一致を企て一時これを爲果せたりとすとも、その翌󠄁日よりして早くも不一致の方途󠄁に進󠄁むものなることを忘󠄁るべからず。(略)

 通󠄁常ア、イ、ウ、エ、オの五の母音󠄁ありといふ。されど、これ實は世俗の見解にして嚴密に學術󠄁的󠄁にいへば開口の「ア」より合口の「ウ」に至るまでには多數の母音󠄁の遷󠄁移は存するなり。(略)

 かくてこの多數の母音󠄁中よりその代表的󠄁の型をとってア、イ、ウ、エ、オとしたるのみ。されば實際「ア」と書ける音󠄁にも「オ」に近󠄁きも「エ」に近󠄁きもあるべきはもとよりなり。その他の諸の假名またかくの如し。かくの如きものなれば假名を以て表音󠄁的󠄁に記すといふともそはたゞ比較的󠄁の事にして、これを以て絕對的󠄁に表音󠄁的󠄁なりと主󠄁張するを得るが如きものは一も存せずといふべし。以上述󠄁べたる所󠄁を槪括すれば、文字はこれを改革すること容易の事業にあらざると共に、言文の一致といふことはいふべくして實は行はるゝものにあらざるなりといふに歸す。(略)

 今の假名遣󠄁案は何を標準として立案又議決せられたるものなるか。その凡例を見るに大體東京語の發音󠄁によりたりといへり。されば、かの改革論者の所󠄁謂表音󠄁的󠄁假名遣󠄁と唱ふるものなるべし。(略)

 果して然らば、これがうちに助詞の「は」「へ」「を」の三のみに古來の假名遣󠄁を保存する理由如何。これ表音󠄁主󠄁義を是なりと認󠄁めて古來前󠄁例なき新用法を案出せる國語調󠄁査會が、この三字のみに正しき假名遣󠄁を保存せるはその表音󠄁主󠄁義を破るものにあらずして何ぞや。更に又顧󠄁るに、助詞のうち「は」「へ」「を」の三語は改めずして「さへ」は「さえ」とせる理由如何。(略)

 これを以て察するに、この改定案には一貫の標準なきものなりといふべし。この故に吾人は更に方向を轉じて、その個々につきてその改革が合理的󠄁なりや否を討尋󠄁せざるべからざるなり。(として「ゐ」「ゑ」の慶棄、「ぢ」「づ」の廢棄、「くわ」の廢棄の否なるを論じ、更に長音󠄁符、動詞の終󠄁止形を長音󠄁と稱すること、形容詞の連用形を長音󠄁とせることの不合理を指摘し、更に「四段活用動詞の未然形に『う』のつけるものについて」「名詞又は用言の語幹中に長音󠄁なりとて改めたるものについて」「ウ列拗音󠄁の長音󠄁として示せる例は拗音󠄁にあらず」と題してそれぞれ詳述󠄁してゐる。次󠄁いで結論として次󠄁の如く論じてゐる。)

 今回の改正案の目的󠄁如何といふことは吾人その明󠄁示せられたるを知らねば遽に忖度し難しといへども、その案に一貫の條理なく學理上の根據なくして一方に極端なる表音󠄁主󠄁義をとりて國語の法格を無視するかと思へば、他方には全󠄁く舊來の假名遣󠄁を保存せり。而してその末尾の音󠄁の假名遣󠄁に至りては字音󠄁に於いては全󠄁く舊式を墨守し、國語に於いては條理一貫せず。而して從來國民間に殆ど誤󠄁りなく行はれ來れるものをも改めたること、上來述󠄁べし所󠄁によりても明󠄁らかなるべし。(略)

 惟ふにわが國語國文を整理するが如きは、一の極めて重大なる國家及󠄁󠄁び民族の問題にして一朝󠄁一夕の事業として成󠄁就すべき輕微の問題にあらず。吾人の望󠄂む所󠄁は國家が永久的󠄁の機關を設け百年若くは五十年以上の計畫を以てしてその事業を起󠄁し、時間的󠄁には過󠄁去より現在にわたりてこれを調󠄁査し、空間的󠄁には現代の各地方に行はるゝ語より各關係語族に至るまでの調󠄁査を施し、以て國語の歷史と現狀とを明󠄁かにし、しかして後徐ろに將來の國語を如何にすべきかの問題を解決すべし。(略)

 人或は五十年百年といはばその長きに驚かむ。五十年は人一人の生命期󠄁間に過󠄁ぎず。過󠄁去數百年間放棄せられし問題を五十年百年にして眞に解決するを得ば寧󠄀ろ僥倖といはむ。何の長きに驚かむ。見よ、水戶の大日本史は二百年の繼續事業たりしにあらずや。又今の史料編󠄁纂事業の如きはその編󠄁纂方法は必ずしも吾人の贊成󠄁する所󠄁にあらずといへども、既に五十年を經て、なほその成󠄁績半󠄁に達󠄁せざるにあらずや。わが國語問題の根本的󠄁解決の如きは決して短時日の間に行はれ得べき輕微の問題にあらず。短時日の間に少數の學者の手によりてこれを解決せむとするが如き事あらば、その事常に失敗に終󠄁るのみならず、これが爲に國費を徒消󠄁するに止らむ。切に當局の反省を望󠄂む。

〔注󠄁記〕

 論文(一)は昭和四年七月󠄁一日發行の寶文館藏版「假名遣󠄁の歷史」「第六章 回顧󠄁」より、(二)は同書「附錄一 文部省の假名遣󠄁改定案を論ず」よりそれぞれ拔萃したものである。特に後者は、大正十三年十二月󠄁文部省臨時國語調󠄁査會の發表した國語及󠄁󠄁び字音󠄁の假名遣󠄁改定案に反對して、大正十四年二月󠄁九日に著者みづから非賣品として發行した憂國の文字である。

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