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四-十三 井上圓了の『漢字不可廢論』

 明󠄁治三十三年四月󠄁刊行された井上圓了の『漢字不可廢論〈一名〉國字改良論駁擊』は、井上が東洋大學の前󠄁身である哲學館の文科生徒に對して行つた講󠄁演の筆記である。井上は、先に帝󠄁國敎育會より貴衆兩院へ提出された請󠄁願書は「一言半󠄁句として感服󠄁する所󠄁なき」「洋人崇拜敎を信する徒の論法と見做すより外ない」もので、西洋人が、日本人の箸や下駄を最大困難なりと言ふのを根據として「日本人にも最大困難なりと論ずるに異りませぬ、すべて困難とか平󠄁易とか申すは、多くは習󠄁慣の有無に關係したことである」として、日本人には左程󠄁困難ではない、「一步を讓りて、多少の困難ありとするも、こは決して兒童の發育に害󠄂なきのみならず、却て益あるものと考へます」と述󠄁べてゐる。次󠄁いで「(六)漢字は發音󠄁に困難ありといふを駁す」において、淸、晴、睛、精、靖、靜の音󠄁はすべて「セイ」であるといふやうな例をいくつか擧げ

*漢字の發音󠄁には、自然に一定の規則ありて、文字の左偏󠄁か右旁に就て讀むことが出來る、其中には往󠄁々例外の發音󠄁あるも、大抵五十韻の通󠄁音󠄁に依る以上は、例外の規則を作ることが出來る、若し例外の例外の如きは、獨り漢字の發音󠄁に限るにあらず、西洋語にもあることなれば萬止むを得さる次󠄁第であります

と述󠄁べ、「(十三)漢字には種々の長所󠄁あることを述󠄁ぶ」において

*今其長所󠄁を擧けて申さは、漢字に限りて、文字の上に事物の分類が現れて居ます、是は西洋語の遙かに及󠄁󠄁ばぬ所󠄁である。卽ち漢字にて木偏󠄁にかゝる文字は木に屬し、艸冠に作る文字は草に屬し、人偏󠄁、口偏󠄁、火偏󠄁、蟲偏󠄁等、皆其所󠄁屬の部類を現はし、文字を一見すれば忽ち其意󠄁味の半󠄁を了解することが出來る、斯る例は餘未た他國の語中に見たことがない

*其外漢字の組合に就ては、偏󠄁、傍、冠、脚に各多少の意󠄁味を帶び、之を硏究すればするほと、興味を覺ゆること、到底他邦の文字の企て及󠄁󠄁ぶ所󠄁ではありませぬ、例へは水の靑きをスムと訓し、木の相竝ぶをハヤシと訓し、日と月󠄁と相合すると明󠄁アキラカと訓するの類は、一々計へ盡くすことは出來ぬ、忠は字體の如く中心の義である、孝は字形の如く子が老人に事ふる有樣を示したものである、字は家の下に子の住󠄁する形にして、家庭󠄁敎育の意󠄁を示し、婦󠄁は女子がハフキを取りて掃󠄁除する意󠄁を示し、男は人が田にありて力耕する意󠄁を示し、正は一止にして、一を守りて動かさるを示し、王は三を一貫したる形にして、天地人の三の關係するの意󠄁を示す等、何れも面白き組立であります、故に餘は文字の硏究に就ては、世界中に漢字程󠄁面白きものはなからうと考へる、唯今日まで敎授󠄁法其宜きを得ざる爲に、斯る深き興味あることを忘󠄁れて、不味の者となさしめたるは、如何にも殘念であります、依て餘は今後の國語上の急󠄁務は、漢字廢止に非ずして、漢字敎授󠄁法の改正であると考へます

と論じてゐるが、今日まで漢字敎授󠄁法の硏究があまり顧󠄁みられなかつたことは事實である。漢字を廢すべしといふ論をなす者は多いが、漢字そのものについて深く硏究し、その敎授󠄁法の改善に努めた者は稀である。更に井上は「近󠄁來敎育家たるものが、餘り八ケ間敷西洋人の口氣を眞似て、漢字は困難なり、恐󠄁るべき文字なり、能力を損し發育を害󠄂する等と言ひ觸らすは、却て敎育上に害󠄂ありと思ふ」と痛烈に批判󠄁してゐる。以上は二十三項よりなる堂々たる井上の漢字不可廢論の極く一部に過󠄁ぎないが、漢字全󠄁廢の非を諭󠄀した稀に見る良書であることは窺ふことが出來よう。


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