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五-十三 福永恭助の國字論

 福永恭助は、大正十年八月󠄁『中央公論』に「國語國字問題に關する一考察」を發表し、「()に漢字は惡魔󠄁の文字である」として、調󠄁査會委員に「國民を文字と言葉との苦惱から救つて戴き度い」と懇願し、保科孝一の言を眞に受󠄁けて「獨逸の兒童が六の知識を得る間に我國の兒童は一の知識しか得られない」と嘆いてゐる。また同十年十月󠄁『中央公論』に發表した「國字改良の原理」において「由來日本人は字と語とを混同して取扱󠄁つて居る。混同の原因は謂ふ迄も無く漢字の罪である」と言つてゐるが、それは、漢字にあつては字卽語の關係が强いことの何よりの證據となるものである。さういふ表意󠄁文字の特質を表音󠄁文字の側から評󠄁價しようとするところに間違󠄂ひがあるわけである。次󠄁いで、ローマ字では同音󠄁異義語の識別が出來なくなるといふ意󠄁見に對し

*寫す可き言葉が既に不完全󠄁であつて日本人に通󠄁じないのは、それは言葉の側の責任である。日本人に通󠄁じない言葉をローマ字書きにして判󠄁ら無いと云ふのは寧󠄀ろ當然な事であつて、それは文字其物に缺點があるからでは無い。

と述󠄁べてゐるが、現に漢字を用ゐれば正しく理解し得るのであるから、當然ローマ字の方に缺點があると見なければならぬ。少なくとも、現にある日本語を表記するには、漢字よりローマ字の方が劣つてゐると言へる。またたとひ、言葉が不完全󠄁であるとしても、それが現狀なのであるから、その言葉に最も適󠄁した文字を使用すべきである。話し言葉は、そのまま書き言葉と一致するものではなく、話す場合にはそれなりに用語上の制約󠄁を受󠄁けるのは當然のことである。要󠄁するに、話す場合には聽き手が聽き易いやうに、書く場合には讀み手が讀み易いやうに心掛けること、卽ち話し手と書き手の心構󠄁への問題に歸着するわけであるから、强ひて兩者を一致させる必要󠄁もなければ、ローマ字でも解るやうな單純な言葉だけにする必要󠄁もないのである。それぞれその特徵を發揮させるやうな努力こそ肝要󠄁である。

 また十一月󠄁の同誌に發表した「外國語ののさばりこみ」において、ローマ字採󠄁用により「若し日本人が將來外國語を必要󠄁以上にとり入れる事が起󠄁つたとしたならば、其原因はローマ字の採󠄁用にあるのではありますまい」と述󠄁べてゐるが、現にローマ字を採󠄁用して外國語を混用したいと考へてゐる者もゐるのである。たとひ罪はローマ字採󠄁用にないとしても、罪がなければどうなつてもよいといふものでもあるまい。福永に限らず、一般に改革論者は、外國語混入の問題にしても同音󠄁異義語の問題にしても、責任を他に轉嫁するだけで、一向に本質的󠄁な解決策を示さうとしない。そのやうなことでは、たとひ責任は免れようとも混亂を囘避󠄁することは出來ない。


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