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八-三十五 『使えない日本語』の出版

 昭和五十年十二月󠄁、放送󠄁批評󠄁懇談會編󠄁の『使えない日本語』が出版された。第一部は各放送󠄁局の「放送󠄁禁句集」だが、中には思はず吹き出したくなるものもある。しかも「この『いいかえ集』での用例はあくまでも良識による判󠄁斷の基準レベルを示したものですから、ここになければ使っても良いというふうに卽斷しないで下さい」と斷り書きさへある。「うんこ」は「大便」、「きんたま」は「こうがん」と言へだの、「みみくそ」は「みみあか」、「めくそ」は「めやに」と言へだの、お節介が過󠄁ぎよう。「目糞鼻󠄁糞を笑ふ」といふ諺は「目やに鼻󠄁あかを笑ふ」と言ふのだらうか。何とも滑稽ではないか。

 第二部以下は十二人の識者の差別語、自主󠄁規制についての意󠄁見を收錄してゐる。高橋照明󠄁が「なぜ『いいかえ』をするか」で「シミのついてしまった言葉を、シミのない言葉にかえるのが、いわゆる言い換えである。それによってもとの言葉のもつニュアンスやバイタリティが失われ、味氣ない言葉になってしまうが、これはやむを得ないことである」「女中をお手傳いさんと呼び直す社會的󠄁意󠄁識の變化󠄁が、その待遇󠄁を昔に比べて改善するのに役立たなかったとは思えない」と述󠄁べてゐるのに對して、井上ひさしは「靴󠄁の底皮や障子の貼りかえはなにものかをもたらすが、言葉の貼りかえなぞ、屁の支えにもなりはしないのだ」と言ひ、淸水英夫は「危險であろうとワイセツであろうと、表現であるかぎりは文字どおり絕對に自由なのだ、と繰りかえし叫んでいないと、いつのまにか自由が消󠄁しとんでしまうし、現にそうなっている」「マスコミのコトバ狩りは、問題なく表現の自由の危機である」と訴へてゐる。

 岩波の『廣辭苑』は改訂版を出すに當り「朝󠄁鮮征伐」といふ語を抹殺したが、過󠄁去に使はれた事實を消󠄁し去ることは出來ないし、辭典としての價値を著しく損ふものである。東京創元社の『日本史辭典』で「支那󠄁事變」の項を引くと「日中戰爭」を見よとあるだけで說明󠄁がない。他の國語辭典も似たり寄つたりで、「支那󠄁事變」「大東亞戰爭」の項に說明󠄁のあるものは皆無と言つていい。學硏の『國語大辭典』に至つては「支那󠄁事變」の項も「大東亞戰爭」の項もない。どちらも當時頻繁に使はれただけでなく、今日も使はれてをり、決して死語ではない。辭典編󠄁纂者に猛省を促したい。

  昭和五十一年三月󠄁に出版された加藤󠄁康司の『辭書の話』は、多くの國語辭典と漢和辭典に見られる異同を具󠄁體的󠄁に檢證した勞作だが、「誤󠄁っていても、それが世間に用いられている限り、それはそれで認󠄁めてゆくのが校正者の立場である、というのが私の方針である」とか、「わが國でも戰後、新字體ができた。事態は變ったのである。いつまでも古い部首にかじりついていることはない」とか、「社會生活の變化󠄁による新語の誕生とは別に、當用漢字が制定されてすでに三十年、國字・國語改革運󠄁動もいちおう成󠄁功したと見てよい」とか、辭典の規範性を輕視し戰後の國語改革を肯定してゐる點はいただけない。マスコミの無責任な造󠄁語、書き換へ、俗語、外來語の使用を辭典が追󠄁認󠄁することで、加藤󠄁も言ふやうに「むかしは一册の辭書を一生涯使い、あるいは親子二代お世話になったものだが、このごろの辭書の壽命は短い。辭書は消󠄁耗󠄁品化󠄁されてしまった」「出版元は新裝版・改訂版・增補版と銘打って新を竸う。新語辭典や新聞語辭典にまかしておいては竸走相手に負けてしまふ。勢い收錄語の新陳代謝を繰り返󠄁さざるを得ない」といつた現狀は、言はば國語の危機である。


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