すべては日本語に在り

國語問題協議會會長・宇野 精一
聞き手/『正論』誌・小島 新一

古典の復興を

――『平成新選百人一首』出版の經緯を教へて下さい。

本には編者として私の個人名が書かれてゐますが、企畫、編集には國語問題協議會有志が當りました。

協議會は昭和三十四年十一月、戰後の國語改革に反對して發足しました。終戰直後の昭和二十一年に國民的な合意も研究もまつたく行はれず、國語のローマ字化を意圖して實施された國語改惡に反對して、日本を代表する有識者たちが結集して記者會見などもあつて設立されました。會の活動の趣旨を一口で言へば、まづ、戰前の漢字・假名づかひに戻したい、生かしたいといふことです。漢字制限、現代かなづかい、送假名の送過ぎを止めるべきであるといふことですね。

最近、とくに日本語の亂れがひどいといふ意見があるし、この亂れの原因は何かといへば、やはり古典を捨てたことなのですね。それで古典を大切にすることから、國民、ことに道徳心が缺如してゐるといはれる青少年、幼少年たちの情操教育に役立てて、荒廢した世の中を立直したいといふ思ひがありました。

ただ、急に古典といつても讀んでもらへない。それで、協議會創立以來の理事、役員で東京都教育委員も務められた石井公一郎・元ブリヂストンサイクル會長の發案で、その實踐的活動として和歌から入らうといふことになつた。和歌は、口に乘せて覺えやすいし調子もよい。和歌を普及させていくことによつてこれからの時代を擔ふ子供たちにも正假名づかひに慣れてもらふ。さらに進んで古典文學も讀めるやうに、といふ深遠なねらひもあります。一言で言へば、古典の復興です。

このやうなことで、この新百人一首の出版早々、産經新聞や讀賣新聞その他から高い評價とともに紹介され、「あとがき」で本會の新井寛常任理事が書いてゐる通り、「國文學史上特筆すべきもの」と思ひます。

――歌はどう選んだのですか。

募集しました。萬葉集はいろいろな方の歌が選ばれてゐて防人の歌から天皇の御歌まである。それと同じやうに、いろいろの歌を採り入れようといふことで、いろんな方に呼びかけた。さうしたら千首ぐらゐ集りました。二百人餘の方が應募してくださいましたが、一人一首に絞らないといけない。けれど甲乙附けがたくて、結局、絞込むのに二年近くかかりましたね。

――國語改革はどう進められてきたのでせう。

終戰直後の國語改革の大きな流れは、漢字を廢止し、日本語をローマ字や假名だけにするといふものです。その考へは戰前から、また明治時代から、西周はローマ字論、初代文部大臣の森有禮は英語を國語にしようと主張しました。

文部省は明治三十五年に國語調査委員會を作りましたが、その研究方針は、@文字は音韻文字(フォノグラム)を用ゐることとして、假名、ローマ字の得失を論じることA漢字假名をやめて、ローマ字か片假名にするかどうかを研究する―といふもので、文部省はそれ以來、同じ方向で來てゐた。しかし、森鴎外とか芥川龍之介とか心ある人たちは全部反對し、いつたんはその流れはなくなつたやうに見えた。

――それが復活したのは。

 アメリカの占領政策です。昭和二十一年十一月、食糧も不足してアメリカから食糧援助を受けてゐたやうな時期に、「内閣訓令」「告示」が出て、現代かなづかいと當用漢字が定められた。「當用漢字」は、「一般社會で使用する漢字」といふ觸れ込みでしたが、字の通り「當面用ゐる」字、つまりそのうち漢字はなくすといふ意味がありました。學者にも相談しないし、民主主義を標榜しながら國會の文教委員にも一切相談してないんです。軍國主義以上の暴擧をやつた。

GHQは當初、日本語をローマ字にしようとした。しかし、新聞社も反對したので引込めた。引込めたけれどもどうしても日本語を簡略にしなきやといふので、また日本の方でもGHQにすり寄る連中がゐて、漢字を減らし、假名、片假名ではなくて、ひら假名を。

日本では小學校の一年では片假名を教へ、二年でひら假名を教へるといふのが昔のやり方だつた。GHQは日本には漢字、ひら假名、片假名、ローマ字といふ四種類の字があると聞くと「オー、テリブル!」と驚き、漢字をやめろといつたけれどできなかつた。假名はどちらが普通に使はれるかといふと、普通の文章はひら假名なので、子供にもひら假名を教へなさいとなつたわけです。だから學校では片假名をあまり教へなくなつた。GHQの差金は、本當にいろいろありましたね。

漢字廢止には反對した新聞社も、漢字が少くなると活字を拾ふのが樂だといつて活字關係の方たちも便乘した。それと、文部省でも明治時代の流れが綿々と續いてゐたわけです。ローマ字會、カナモジカイがまたそれに乘つてくるわけ。かうしてできたのが當用漢字、現代かなづかいでした。

――GHQはなぜ漢字廢止にこだはつたのでせう。

日本の古典や優れた傳統文化を殘すと、また日本の良さ強さが復活するのではないかと恐れた。日本民族の優秀さをなくさうといふ愚民化政策なのです。世界の歴史を見れば分かるやうに、その國の歴史と言葉を變へることが、その國を完全に敗北させる要件ですから。

國語から漢字の要素を取除いたら、思想や感情を表現する内容が乏しくなつてしまふ。「コウエン」といつても、公園、講演、公演、後援・・・いくらもある。ローマ字か片假名だけにしたらみんな混同して、文化が退化しますからね。

反撥もありました。アメリカなんかにそんなもので變へられたらどうするか。戰爭に負けるたびに言葉を變へてゐたら、日本語は將來なくなつてしまふ可能性がある。ドーデーの「月曜物語」にアルザス・ロレーヌ、フランス領土だつたところがドイツに占領され、校長先生が「明日からフランス語を使へなくなります。けれども君たちはフランス語を忘れないやうに」と涙を流して子供たちに演説をするでせう。さういふ空氣があつたのです。協議會で有名なのは福田恆存さんだけど、福田さんだけぢやない。國語改革に反對してゐる人は多かつた。ただ被占領中は發言の自由がなく、腹の中で悶々としてゐる人はたくさんゐたわけです。

私がなぜ國語問題に關心を持つたかといふと、やはり漢文をやつてゐましたからね。漢字を制限するなんてとんでもないといふ理由です。自分の刀を取られる形になりますから。專門家は專門家でやればいいといはれますが、專門家だけではなく、學問や文化、藝術、スポーツなどすべては廣い基盤がなければ成り立たないし進歩しません。最近のサッカーがよい例で、子供たちが盛んにボールを蹴飛ばし始めて、競技人口が増えてだんだんレヴェルが上つてきた。

國民一般が漢字を使はない、專門家だけが漢字を使ふといふことでは漢學はだめになつてしまひます。漢學は日本の文化にとつて根本的なもので大事なものだと思つてゐますから、それが制限されるなんてことはとんでもないことです。

もちろん、中には「文部省の現代かなづかいについて文句を言つてゐる連中がゐるけれども、日本は戰爭に負けたのですよ。戰爭に負けたのに、そんなものをいぢられたからつて、なんで文句を言ふのですか」といふ意味のことをいふ人もゐましたが。

――漢字をなくすといふ動きはいつなくなつたのですか。

昭和四十一年のことです。國語審議會の新委員が揃ひますと、文部大臣が諮問しますが、その諮問のなかに「申すまでもなく國語は漢字假名まじり文でありまして」といふ一句が入つた。長い文章のなかに「國語は漢字假名まじり文でありまして」といふ一句が入つて、普通の人が聞いてゐれば聞逃すやうなことですが、「あ、これでやつと決つた」と思つたものです。明治三十五年の國語調査會の方針がやつと否定されたわけです。

正面切つて明治三十五年のものを否定するとは言はない。諮問したのは中村梅吉文部大臣でしたね。

――なぜその一句が入つたのでせう。

非常に大きかつたのは、癌研究で文化勳章を受章した癌研究所長の吉田富三・東大名譽教授が審議會に入つていろいろと活動してくれたことですね。それと、われわれが漢字廢止はいかんなんてことをしきりにいつてゐるから、さういふ空氣にだんだんとなつていつたのでせう。

國語問題協議會の發足は、文部省がまづ當用漢字を決めて、現代かなづかいを決めて、そして最後に送假名を決めた。送假名を決めたのは昭和三十四年です。送假名は昔から問題になつてゐて、「送假名に手をつけると命取りだ」といふことは常識だつた。それを文部省が勇み足的に國語審議會で送假名に手をつけて發表したわけです。相撲のNHK放送をみると「引き落とし」で「落」と「とし」と書いてある。落としは「落」といふ字と「し」を書けばいいでせう。「落」は「おちる」と「おとす」と兩方に讀めるから、「と」を入れるといふので、つまりは「落」の字を「お」と讀ませるといふ趣旨です。「取り締まり役」にも「り」と「まり」を入れなくてはならない。入れないと本當は名刺にも使へないわけだけど、さすがに「取締役」の場合入れなくてもよいとしてゐます。

こんな送りすぎの送假名を決めたので、反撥が猛然と起つた。

――國語問題協議會はどのやうにして設立されたのですか。

直接のきつかけは、岩下保君といふ小學校の校長が子供の教育上非常に困るといつて動き始めた。例へば「地」は「大地」といふときには「ダイチ」、「地面」の時には「ジメン」となる。これでは、頭のいい子が間違へるし、教へようにも説明できない。岩下君の運動で日本經濟新聞社顧問だつた小汀利得さんや福田恆存さんらが中心となつて國語問題協議會ができた。

やはり教育現場が困るのは改惡ですよ。當時は、支那が標準語を普及させ識字率を上げるために、ロシア語式のローマ字でルビを振つたり漢字を簡略化したりする政策を進めてゐた。それを利用して、「漢字を使ふ國は日本だけになりさうだ」と支那視察の經驗のある國會議員も卷込んだ運動を始めた連中もゐました。

岩下君はかうした動きに對抗して新聞に投稿したこともありましたね。五年前に亡くなるまで協議會の事務局長をよくやつてくれた人でした。

國語問題協議會といふと福田さんが有名ですが、發起人には文學や哲學關係の方はもちろん、財界人、藝能關係とか、あらゆる分野の方がいらつしやいました。日本のこれはといふ古典や傳統を尊重する方々はほとんど參加して居られます。

――改革に抵抗するために、いささか過激な方法も取られたやうですね。

昭和三十六年三月のことですが、國語審議會を脱退しました。理由は委員の銓衡方法。國語審議會は二年ごとに委員が交代しますが、委員のうちの主だつた人五、六人が銓衡委員となり、次期委員を推薦してゐました。そのときは銓衡委員のうち作家の舟橋聖一さんだけか漢字重視、表意派で、あとの四、五人は表音派、假名文字論者や漢字廢止論者でした。從つて次の審議會委員も絶對的にこちら側が少なくなるのが分つてゐました。

それで舟橋さんや成瀬正勝・東大教授、鹽田良平・立大教授、山岸徳平・東京教育大教授と私が、いまの銓衡方法では、ローマ字論者、假名文字論者の主導權が永久に續くので變更すべきだと提案した。かなりやりとりがあつて、たうとう舟橋さんがしびれを切らして、「それぢやちよつと休憩をして下さい」といつて立つた。

それで私や成瀬さん四人も附いていつて話合ひ、「これは脱退でもして問題を大きくしないと無理でせう」と全員脱退に贊成した。また戻つて最後には舟橋さんが「受け入れられなければここで脱退をいたします」といふ演説をぶつて、一同退席しました。それが新聞に大きく出て社會問題にもなりましたね。

舟橋さんは小説を書いたり、芝居の脚本を書いたりしてゐるから、演出が上手でしたね。ドラマチックで。私共のやうな學者はだめですね(笑)。うまく當つた。舟橋さんにも知名度があつて社會的な問題になつたから、銓衡方法が文部省推薦といふことになつた。〈注一〉

そのときの文部大臣が荒木萬壽夫さん。荒木さんは協議會の行事に出てくださつたことがたびたびありましたね。私たちの活動を理解していただいてゐました。日本の國を本當に大事に思ふ人には、私たちの言ひ分を理解してもらへるんです。言葉が荒廢して、そして國民の心も惡くなつていく。親が子どもを、子どもが親を殺すやうな社會になる。あの時の脱退はある意味でよい警告を與へたと思つてゐます。

教育は國語から

――いまの日本語ブームはどう思はれますか。

本格的な日本語、國語への關心を呼ぶまでには、まだなつてゐないですね。聲を出してよい文章を讀むといふのは優れた試みですが、殘念ながら讀まれる現代國語がどうですか。

言葉といふものは、いつの時代でも亂れてゐるといはれれば亂れてゐるものです。ただ、かつては個人的な會話で使ふ言葉が亂れてゐても廣がりをもつてゐないので、大きな問題にならなかつた。

それが大正十四年にラヂオ放送が始り、個人の話す言葉が廣がりを持つやうになつてきました。昔はラヂオで話をするのにも原稿を書いて、放送局がチェックして、具合の惡いところがあれば訂正してゐたらしいけども、だんだん嚴しくはやらなくなつた。

戰後はさらにテレヴィが登場し、その場で即座にしやべるやうなことが増えましたね。とつさのことだから間違つた言葉づかひをするのもやむを得ないとは思ひますけれども、あまりにひどい。困つたものです。

――國語教育の在り方についてどう思はれますか。

教育とは何かといへば、まづ國語教育です。だから國語教育をもつと充實しなきやだめですよ。いまの國語の授業時間は戰前の半分になつたと聞いたことがあります。平成九年時點の十歳兒の國語教育の時間數を文部省がまとめてゐますが、年間でアメリカ三百四時間、フランス二百九十六時間に對して日本は二百十時間。英文字國の米佛の方が漢字國の日本より多くの授業時間を行つてゐる。

かつてのドイツでは、低學年では國語と算數しか教へてゐなかつた。お茶の水女子大の數學の藤原正彦教授が「一に國語、二に國語、三四がなくて五に算數」といつてゐますね。いまの學校で實現できるとは思ひませんけれども、それだけ國語といふものが大事なものであることは間違ひないのです。

ところが、日本では國語の授業をどんどん減らしてしまつてゐる。それでは國語力の低下はいふまでもなく、他の教科の讀解力、表現力などが低下するのは明らかでせう。

さらに、いまは親もをかしくなつてゐますね。その親は戰後の親が育てた。だから今の子供は戰後三代目で、言葉が亂れるのも無理はないです。本當は、言葉は親が教へるものですが、いまの親には期待できない。だから本來なら學校で昔以上に教へる必要があるのですがね。

算數も大事だと思ひますね。つい二十年ぐらゐ前までは日本の子供は算數の力が世界一だつた。ところがどんどん下つてきて開發途上國竝になつてゐる。さういふ状態では日本の文化全體が低下します。

なかには優秀な偉い人もゐるでせう。ただ、突出した人がゐるだけではだめなのです。全體が向上しないとパワーにならない。

――ゆとり教育の問題ですね。

文部科學省にもひとこと言ひたい。事務次官が新聞のインタヴィューに、「大學では過激な學生運動をしてゐて、『權力を倒すには暴力が必要である』と本氣で考へ、デモもした。しかし、本當に世の中を變へるには『内部に入つてやらねば』と公務員になりました」と話してゐます。〈注二〉

この人は學生運動華やかな時代に學生だつた。つまり全共鬪、過激派の出身といふことですね。かういふ人が不思議だけれど次官になつた。「ゆとり教育」や「學校週五日制」など文部省、文部科學省のここ十年の政策を見てゐると、ことごとく日教組の教育政策です。なぜかと思ひ續けてきたけれど、やはり下敷きができてゐる。國語の授業時間が戰前の半分になつたことも政策的にやつてゐるのではないかと思ひますね。いまの文部行政はひつくり返さなきやだめです。文部省、文部科學省の惡口だつたら、三時間話しても足りませんよ。〈注三〉

――今後のご活動は。

この歳になつて活溌な活動はできないけれども、國語の教育を畫期的に充實させることをお願ひしておきたい。

基礎教養がなくなつてきてゐるのは、古典教育を學校できちんとやらないからいけないんですね。學校で話し方を教へるといふ意見がありますけど、それを教へられる先生はあまりゐなくなつてゐるのでは。第一、言葉の發音が問題ですね。

國語力が低下したから他の學力も低下してるわけですね。私たちは全て國語で知識を廣げてゐます。言葉によつて、ものを覺え、ものを考へ、ものを知る。その言葉がだめになつたら知識が少くなつてくるし、知的能力、判斷力や道徳力が衰へ、感情もだめになります。子供たちが惡いことをするのはテレヴィの見過ぎといふこともあるけれど、テレヴィを見て惡くなるといふことが知能低下の證據です。

「論語」を讀まう

極端なこと言ふなら、古典教育をやらなくちやいかんと思つてゐます。小學校でいきなり古典といつても無理ですから、せいぜい中學でせうが、小學校は現代語を教へなきやいけませんけど、中學ぐらゐでは、そろそろ古典、昭和の初期ぐらゐのものを、芥川とか、漱石とか、せいぜい菊池寛ぐらゐの作品は教へてもらひたい。

そして、高等學校では現代國語なんて教へる必要はない。古典の國語と漢文。高等學校の國語は漢文二時間、古典三時間、その五時間を高等學校三年間がつちりやる。これで隨分日本の教育は違つて來ると思ふ。現代國語なんて、新聞を見たり雜誌を讀んだりすれば勉強になるんですからね。

――新聞すらも讀まなくなつてきてゐます。

現代國語は義務教育を終つた年代なら分らないといけません。わかるやうな文章が書けなければいけませんね。小中學校の段階でそれを教へ込まなくてどうするのですか。

昔の中學生は漱石の「猫」や森鴎外の作品を樂しみながら讀んでゐた。全部はわかつてゐなかつたに違ひないけれども、面白いと思つて讀んだ。現代文學なんて、教へるものではなくて樂しみに讀むものです。高等學校で現代國語を教へるなんて何事ですか。戰後間もなくかういふ問題に關心を持つやうになつてから、ずつと言ひ續けてゐることです。微力にしてそれが通りませんけれども、いまでもその考へは誤つてゐると思つてゐません。

だから小學校で國語を畫期的に増やすこと。高等學校では現代國語を廢止して古典國語を徹底する。古典國語の中には漢文二時間、古典國語三時間といふ時間を是非必修としてやるべきです。まだたくさん言ひたいことはありますけど、この二點は、大事なことなので是非とも言ひ殘したいですね。

古典といへば、漢文は日本の最古の古典であり、日本人が言葉といふものを文字に書くことができる、書いた文字によつて讀み取ることができるといふことを知つたのは漢文なのです。四世紀頃、應神天皇の十六年といふ年ですが、百濟の王仁が「論語」と「千字文」を日本の朝廷に獻上した。これで日本人は文字を知つた。

ですから「論語」を教へなければいけないと思ひます。古典を讀むことは文字を讀むことだけではありません。そこには、思想、倫理、そしてその時代の生活があります。廣い意味の文化が集結されてゐますから、子供にしつかり教へておいてほしい。古典教育をしつかりやれば、修身や道徳なんてやらなくてもいいくらゐのものなのです。

〈注一〉 産經新聞の國語問題特集が、平成十五年九月十五日、十七、十八、十九日と四囘にわたり「競う・ライバル物語 歴史的仮名遣いVs 現代仮名遣い」の一頁特集として連載された。その第二囘は、「伝統派反撃」と題して、舟橋聖一、宇野精一ら五委員が國語審議會の改組を要求して退場した昭和三十六年の「文壇委員退席事件」と、その反響を紹介してゐる。

〈注二〉 「文部科学事務次官・小野元之さん、何とかなるさ『60点主義』」。(毎日新聞平成十三年八月二十日、四面「学校と私」インタヴユー欄)

〈注三〉 八木秀次氏の論考「『ゆとり教育』は革命理論と心得よ」(「月曜評論」平成十五年十二月號)は、「ゆとり教育」の徹底批判であり、「体制内左翼」小野元次官の「開き直り」についても嚴しく追及してゐる。

宇野精一(うの・せいいち)。明治四十三年(一九一○年)東京生れ。東京帝大文學部支那哲學科卒業。東京高師教授、東京大學教授(現名譽教授)、熊本女子短大學長、尚絅大學學長(現名譽學長)などを歴任。著書に『中國古典學の展開』『宇野精一著作集』(全六卷)。最近著『論語と日本の政治』。

(初出は『正論』平成十四年九月號。原文の誤植誤記等を直し、正假名正字に改め、注をつけた。鴎外の「鴎」と、活溌の「溌」はJIS制約により、先生御指定の正字が出せなかつた)


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