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福田恒存

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「日本への遺言・福田恆存語録」

福田恒存 著・中村保男 編・谷田貝常夫 編

大正元年生まれの福田恆存は平和論への批判を早くから行つた保守派の論客で、同時にシェイクスピア戯曲作品の飜譯・上演でもよく知られ、戰後の昭和期を代表する思想家と言つてよいだらう。福田恆存の名を世間で有名にしたのは、進歩派全盛の中で昭和二十九年に『中央公論』に發表した「平和論の進め方についての疑問」で、進歩派の平和論を徹底的に批判した。また戰後の國語國字改革を批判し、金田一京助等との論争で「現代かなづかい」・「当用漢字」の不合理を指摘した。その集大成が歴史的假名遣ひのすゝめを説く『私の國語教室』である。

評者が最初に氏の著書に接したのも『私の國語教室』であつた。氏の考へに傾倒し、『福田恆存全集』を讀破しやうと思つても、凡人には甚だ荷が重い。その點、本書はこの全集に輯録されてゐる多岐に亙る論考を一旦全部を「解體」し、拔萃された文章を一頁以下に纏め直して輯録してゐるので、この本一册を讀めば、福田恆存が分かつた氣分になれる。編輯の仕方も「文化」、「政治」、「社會」等と言つた一般的な區分けをせずに、斷章が一見脈絡のない章の中に收められてゐるのが、新鮮で面白い。例へば、第一章の「惡」の中に「機會均等」といふ斷章が入つてゐる。現代日本の社會通念ではそれは「善」かもしれないが、この斷章の中で福田恆存は「自分でものを見、自分で考へる力を失つた社會集團にたいしては、機會均等ほど畫一主義の出現に都合のいい原理はない」と述べ、この文脈では、機會均等の手段はマス・コミといふ形をとつてゐて、マス・コミほど獨裁者に便利な機構はないといふことになり、「機會均等=惡」なのである。

印象に殘つた箇所を二、三紹介して見る。「民主主義の心理」といふ斷章の中で「民主主義政治の原理は、自分が獨裁者になりたくないといふ心理に基いてゐるのではなく、他人を獨裁者にしたくないといふ心理に基いてゐるのである。一口に言へば、その根本には他人に對する輕蔑と不信と警戒心とがある。さうと氣づいて貰へれば、『正義の主張は犯罪と心得べし』といふ私の忠告は極く素直に受入れられるだらう。(中略)民主主義の名の下に暴力を犯し、あるいは暴力を犯してそれを肯定するために民主主義を口實にする。さうかと思ふと、暴力は民主主義ではない、それに反するものだと言ひ、民主主義をもつてそれを説伏しようとする。民主主義とはそれほど便利なものか」と述べてゐるが、誠に福田恆存らしい。

國語關係の論考は多い。「表音主義の誤ち」の斷章では、「明治以來の言語學者は西洋の體系をそのまま鵜呑みにして、大きな間違ひをしてゐる。大體、西洋では、まづ言葉があつて、といふのは音の集合體があって、それを文字に書き表すことを思ひつき、ローマ字のやうな表音文字を發明した。ところが日本では、なるほど原始生活をそのまゝ反映した和語はあつたが、それを文字に表はさうなどと思ひつかないうちに、支那の文字と言葉とが入つて來て、しかもそれが言葉よりは文字を中心に取入れられ、擴がつて行つたのである」と、西洋の言葉と日本語との違ひを述べ、漢字を追放することは日本語になつてゐる漢字の言葉を追放することになると、西洋の公式一つで國字改革を企てる表音主義者を窘めてゐる。

また、「言文一致」の斷章では、「明治以來の言文一致はその動機において正しかつたが、結果的には大變な誤りを犯したと、私は考へてをります。なによりの證據は私たちの文學が詩を失つてしまつたことです。といふことは、私たちが文學を失つたといふことです」と述べ、言文一致において、音聲言語の文語による鍛錬と格上げを考へることなしに、一方的に文字言語の口語による破壞と格下げしか考へなかつたからだと分析してゐる。

此の本を讀んで、もし物足りないと感じた方は是非とも『福田恆存全集』に挑戰されたい。

加藤 忠郎(かとう ただを)國語問題協議會常任理事 公財・日本發明振興協會 副理事長