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一-三 ローマ字の傳來

 日本人が初めて西洋人に接したのは、ポルトガルの船が豐後に漂着した天文十年七月󠄁(一五四一年)のことであると思はれる。その後天文十二年八月󠄁には、ポルトガルの船が種子島に來て鐵砲󠄁を傳ヘ、同十八年八月󠄁には、スペインの宣敎師フランシスコ・ザヴィェル(Francisco de Xavier)が鹿兒島に上陸し、吉利支丹布敎の許可を藩主󠄁島津貴久に求めてゐる。更に永祿十二年(一五六九年)には、宣敎師ウルカンは織田信長の保護を受󠄁けて、京都に南蠻寺を建てたが、天正一五年に豐臣秀吉によつて取毀された。

 クリスト敎の布敎に當り、日本語をローマ字で綴る必要󠄁が生じ、天正十八年(一五九○年)イタリヤ人ワリニアーニ(Alessandro Valignani)がローマ字の活字印刷機を持つてやつて來た。それによつて出版された耶蘇敎會刊行の諸書には、『サントスの御作業の中拔書』(一五九一年)、『信心錄』(一五九二年)、『口譯平󠄁家物語』(一五九二年)、『拉典文典』(一五九四年)、『日本語典』(一六〇四)などがあるが、それらの諸書に現はれた綴方は左の通󠄁りである。

ai(j,y)u(v)yevo
caqi(qui)quqe(que)coqiaqiuqioquaquo
saxisuxesoxaxuxo
tachitutetochachucho
naninunenonhanhunho
fafifufefofiafio
mamimumemomiamio
ya(y)yu(ye)yo
rarirureroriariurio
va(ua)(i)(u)(ye)vo(uo)
gùigu(gv)guegoguiaguiuguioguaguo
zaji zujezojajujo
dagizzudedogiagiugio
babibubebobiabio
papipupepo

 なほ、長音󠄁を表はすのにŏôǔù、或いはijなどを用ゐ、nãõなどを用ゐてはねる音󠄁(撥音󠄁)を示し、子音󠄁を重ねてつまる音󠄁(促音󠄁)を示してゐるが、qの場合に限りcqを用ゐてゐる。

 その後、蘭學者によつてローマ字綴方が工夫され、靑木昆陽の『和蘭文字略考』(一七四六年)、大槻玄澤の『蘭學階梯』(一七八五年)などにより、蘭學者式ローマ字綴方が確立された。その主󠄁な特徵は、a、i、u、oにそれぞれk、s、t、n、f、m、j、l、w、g、z、d、b、pなどを組合せて圖式的󠄁な五十音󠄁圖をつくつてゐることである。

 續いて、ホフマンのオランダ式、ランドレスのフランス式、メドハーストのイギリス式、シーボルトのドイツ式などの綴方が行はれたが、次󠄁第にイギリス式綴方が他を壓倒し、やがてヘボン(J.C. Hepburn)が、慶應三年(一八六七年)に『和英語林集成󠄁』(Japanese and English Dictionary)を出版すると、そのローマ字綴方、卽ちヘボン式ローマ字綴方が急󠄁速󠄁に普及󠄁󠄁されて行つた。その綴方は左の通󠄁りである。

aiueo
kakikukekokiyakiukiyokuwa
sashiszsesoshashusho
tachitsztetochachiucho
naninunenoniyaniuniyo
hahifuhehohiyahiuhiyo
mamimumemomiyamiumiyo
yaiyuyeyo
rarirureroriyariuriyo
waiuyewo
gagigugegogiyagiugiyoguwa
zajidzzezojajujo
dajidzdedojajujo
babibubebobiyabiubiyo
papipupepopiyapiupiyo

 今日ヘボン式ローマ字と呼ばれてゐるものとはかなり違󠄂つてゐることが解る。


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