四-四十一 「日本言葉の會」の設立
明󠄁治四十三年十一月󠄁十三日に結成󠄁された「日本言葉の會の發起󠄁人には、井上賴圀、巖谷小波、服󠄁部嘉香、大槻文彥、高橋龍󠄁雄、上田萬年、日下部重太郞、金田一京助、前󠄁島密などの名が見られる。同會の發足に當り『帝󠄁國敎育』に「日本言葉の會」と題する一文が揭載されたが、それによると、言文一致運󠄁動は一應成󠄁功を納󠄁めたので、近󠄁く言文一致會を解散し「其の身換りとして、殆ど同じ會員より組織せらるべき日本言葉の會といふもの、これと同時に發會式を擧げらるべしといふわけである。また同會の「趣意󠄁がき」には「文字は言葉の影であるのに、今の人はその影である筈の漢字に力を入れるため、そのもとの言葉をおろそかにするやうなり」とあり、漢字漢語を出來るだけ使はぬことを勸め、「申し合せ」には「(い)漢語ならびに漢語めいた言葉は、なるべくつかはぬやうにすること」「(ほ)數育の上でなるべく日本言葉と漢語との區別を知らせること」といふやうな規定があり、「少くも一と月󠄁おきに竝の寄合を開く事」として、發會當初は意󠄁氣盛󠄁んであったが、二、三回會合を開いただけで自然消󠄁滅してしまつた。その會合の樣子を、高橋龍󠄁雄は『國語學原論』において
*「日本ことばの會」で「電氣」といふ漢語の代りに、和語を案出してみたが、どうしても妙案がないので、「エレキ」といふ洋語を採󠄁用することにした。そこで電燈は「エレキあかり」、電信電報は「エレキだより」、電文は「エレキぶみ」、電話は「エレキばなし」と拵へてみたが、いかにも間が拔けてばかばかしいから、會員自身さへをかしくなつて使はなくなつた。まして、充電、放電、送󠄁電、蓄電、感電、停電などの言葉を自由に民衆が造󠄁つて行くのに、「日本ことば會」では唯呆然としてゐるより仕方のない事であつた。
と述󠄁べてゐるし、服󠄁部嘉香は『國語・國字・文章』において
*この外、「エレキぐるま」(電車)、「エレキしらせ」(電報)、「おとからくり」(蓄音󠄁機)などの案もあり、「おとからくり」は、平󠄁井金三の案で、喝采󠄁を博するといふ有樣で、何だか閑人閑事の駄洒落のやうなものとなり、數囘の會合でいつの間にか自然消󠄁滅となつてしまつた。「音󠄁からくり」は唯一の傑作ではあつたが、「蓄」の一字に妙味があることを忘󠄁れたもので、オルガンも、ピアノも、太鼓も、各種のフルートも、すベて「音󠄁からくり」になつてしまふ名詞としての不安定性に氣づかない愚案どいふベぎであつた。
と述󠄁べてゐる。今日の學生には、電燈、電話、電車、電報などが日本の言葉ではないと言はれても、到底理解できないであらうし、更にそれらの便利な言葉を使ふのが何故いけないのか理解に苦しむであらう。電車にしても電話にしても立派な日本の言葉である。學問上和語と漢語に分類するのは一向に差支ないが、今になつて漢語は日本の言葉ではないから使用するななどと愚にもつかぬこと言つてみてもはじまらない。「おとからくり」だの「おとうつし」だのと、大の男が寄集つて、言葉の遊󠄁技に暇をつぶすなどは全󠄁く馬鹿氣てゐる。このやうな「日本言葉遊󠄁びの會」が自然消󠄁滅したのは道󠄁理であるが、その思想が今日なほ一部の國字改革論者に受󠄁繼がれてきてゐるのは困つたことである。