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六-二十七 「漢字字體整理案」

 昭和十二年十一月󠄁二十四日、國語審議會總會において「漢字字體整理案」が可決され、その實施に關する建議案が文部大臣に提出された。その凡例によると「本案ハ昭和六年五月󠄁臨時國語調󠄁査會デ發表シタ常用漢字表(一八五八字)ノ文字ニツイテ」「康煕字典ノ字體ヲ本トシテ整理シタモノデ」「慣用ヲ重ンジ、簡便ヲ主󠄁トシ」「整理ヲ施シタ文字ヲ第一種・第二種ニ分ケル。第一種文字ハ國定敎科書ヲ始メ、ソノ他一般ニ使用スルヲ可トスルモノ、第二種文字ハ特別ノ場合ニ使用スルモノ、及󠄁󠄁ビ普通󠄁ノ場合ニ使用シテモ差支ナイト認󠄁メルモノデアル」といふことである。本案は大正十四年十一月󠄁發表された「字體整理案」とほぼ同じであるが、その主󠄁な相違󠄂は第一種・第二種の差別を設けたことにある。第一種に指定されたのは「乱、双、.属、虫、蚕、蛮、変、献、鉄、歯、亀、塩、号、点、関、断」など七百四十三字であり、中には「 」を「 」のやうに「ラ」を「テ」にして一畫增したものや、「 」を「 」のやうに强引に骨を曲げて「 」としたものもある。また第二種文字に指定されたのは、「台、弁、旧、声、体、医、辺、学、実、区、応、条、当、発、写、仏」など二百九十九字である。このやうに一種・二種の區別を設けたのは、詔勅や重要󠄁な法律文に用ゐられてゐる漢文の字體を整理の對象とすることを躊躇したためである。

 また大正十二年十月󠄁二十六日、上田萬年が死去してゐる。上田は晚年に至り國語國字改良論を自ら撤囘したと言はれてゐるが、そのことについて山田孝雄が十七年十月󠄁の『文藝春秋』で「山田君、假名遣󠄁を改めるなんていふことは出來ないもんぢやないなあつて明󠄁瞭に言はれました」「これはむしろ上田先生のために天下に公にしておいたはうがいゝのぢやないですか。終󠄁ひまでさういふことの元兇だと思はれてゐるのは氣の毒です」と述󠄁べてゐる。


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