戾る

國語審議會に關し文相に訴ふ

福田恆存

 去る十二月󠄁九日、第七期󠄁國語審議會の最後の總會が行はれ、その席上、過󠄁去一年間の審議經過󠄁の報吿がありましたが、朝󠄁日、每日、兩新聞の表現を借りれば、つひに「最終󠄁的󠄁な結論」を出し得ずに終󠄁つたと言ふほかはありません。勿論、國語の審議において「最終󠄁的󠄁な結論」など出る筈のものではなく、またそんなものを出されては國民は甚だ迷󠄁惑する。しかも、新聞が口を揃へて「最終󠄁的󠄁な結論」を出し得なかつたと書かずにゐられない樣な不樣な總會だつた、そこに問題があるのです。大臣のお手許にも議事錄その他の書類が既に屆けられてゐるでせうが、それを御覽になつても、何處がどう不樣なのかお解りにはなりますまい。といつて、私は大臣の能力を疑つてゐるのではありません。早い話が、仕事から歸つて來て、急󠄁にテレビのスウィッチを捻り、二臺の自動車が迫󠄁ひつ迫󠄁はれつしてゐるテレビ映畫の一場面を見て、それだけでどちらが善玉でどちらが惡玉か直ぐ見分けられるものではない。同樣に第七期󠄁國語審議會最後の總會の議事錄だけを御覽になつても、何の意󠄁味もありません。いや、たとへ第七期󠄁總會の議事錄を、更に第六期󠄁のそれを全󠄁部御覽になつたところで、眞相は容易に摑めないと思ひます。再び譬へ話で申しますと、餘程󠄁芝居を見なれた人でも、何處までが演出家の指示によるもので、何處から先が役者の創意󠄁によるものかは、決して解るものではない。それが解る唯一の方法は稽古に立會ふ事です。幸ひ、私は戰中、戰後の國語國字改革劇について、その舞臺はもとより、稽古にも直接間接に立會つてをりますので、第七期󠄁最後の總會の報吿書や議事錄からは窺ひ得ない國語審議會の態度、及󠄁󠄁び文部省國語課の惡因について說明󠄁し、その禍根を除く樣、大臣の一考を促したいと思ひ立ちました。

 私が申上げたい一番重要󠄁な事は吉田富三委員が第六期󠄁、第七期󠄁の四年間に亙つて提案して來た最も根本的󠄁な問題を審議會も國語課も終󠄁始逃󠄂げ切つて、いはば握り潰しのまま第八期󠄁に持込󠄁んだといふ事でありますが、その前󠄁に十二月󠄁九日の總會で行はれた「最終󠄁的󠄁な結論」ならぬ「一應の審議結果」について私感を述󠄁べます。當用漢字について申しますと、新聞にも出てをります通󠄁り、現行の當用漢字表から三十一字を削󠄁り、四十七字を加へ、都合十六字增加してをります。その四十七字のうちには、刑法改正の關係者より十三字追󠄁加の希望󠄂があつたものを三字減らした十字が含まれてをりますので、殘りの三十七字が審議會の原案といふ事になります。その結果は左の通󠄁りです。

▽當用漢字表から削󠄁つてもよいと思はれる字
丙嗣朕璽迭嚇拷罷脹迅頒錬謁處劾濫遞遵寡畝芋且煩恭但悦爵堪箇丹附
▽當用漢字表に加へてもよいと思はれる字
僕誰杉戻唄且仙堀汁肌亭泥涯尚釣皿偵悠甚洞垣蛇傘拐曹棟朴枕槽泡厄宵挑漠賭濟淫喝姦矯渓洪溝肢酌塾賂

 これを見て、常識のある者なら直ぐかういふ疑問を懷くでせう。

(一)今の當用漢字表から「丙」「迅」「恭」「堪」「箇」などを削󠄁つても良いと思ふなら、同樣に「甲」「乙」「速」「謹」「勘」「個」なども削󠄁つて良いといふ事にならぬのか。いや、いつそ漢字は全󠄁部削󠄁つてしまつても良いといふ事にならないのだらうか。

(二)「杉」「皿」「甚」「蛇」「淫」「賂」などを加へても良いなら、「藤」「柿」「釜」「鍋」「頗」「猫」「鹿」「猥」なども加へて良くはないか。いや、そのほか何を加へても良いといふ事にならないのだらうか。

(三)刑法關係者から十三字の發注󠄁があつたと言ふが、なぜ刑法關係者にだけ發注󠄁の權利と資󠄁格を認󠄁め、醫學、歷史學、文學その他の關係者の發注󠄁を受󠄁附けないのか。

(四)刑法關係者の發注󠄁した十三字のうち、三字は拒󠄁否したと言ふが、國語單著ならまだしも、一般有識者などといふ有象無象や文部省の役人が法律制定について法律學の專門家以上にその用語を規制する權限が與へられてゐて良いものなのか。

 これは當然の疑問で、その點は大臣も御同感の事と思ひます。この疑問を端的󠄁に現したものとして、吾が國語問題協議會の理事竹內輝芳氏が作つた「當用漢字無い無い盡くし」をお笑ひ草に御紹介致します。

 犬があつて猫がなく、鷄があつて兎なく、馬があつても鹿がない。松があつて杉がなく、桃があつて粟がなく、柿もない。梅があつても鶯がなく、竹があつても雀がない。砂があつて泥がない。霧があつて霞もなく、虹もない。峰があつて麓がない。君があつて僕がない。我があつて汝なく、彼があつて誰がない。好きになれても嫌󠄁へない。才があつても智まではない。服󠄁があつても靴󠄁がない。坊主󠄁があつても袈裟がない。衣はあるが袖なく、身なく、頭があつて頸がなく、皮膚はあつても肌がなく、目があつても瞳なく、瞼もなければ眉もない。鼻󠄁があつても頰がない。舌があつても唇がなく、額があつても、顎がない。心肺あつて骨なく、肝あつて脾膵なく、膀胱もなければ腎もない。腸管あるのに動なく、吸󠄁󠄁收できても排できない。指があつても爪がなく、腰󠄁があつても股もなければ尻もなく、脚があつても膝もなく、脛もない。髮はあるのに櫛がない。さてはかつらか、禿が見えない。湯があつても石がない。道󠄁理で泡󠄁も立たない。手を洗つても手がない。釜がないのに飯がある。食はうと思つたら、茶も椀箸もない、膳もない。鍋がないから汁もない。菜󠄁があつても皿がない。肉はあつても物がない。貝があるのに殼がない。鹽があつても味がなく、油もない。お茶があつても茶も急󠄁も茶もない。家があつても塀がなく、柱󠄁があつても桁がない。屋根があつても瓦なく、門があつても扉󠄁がない。庭󠄁があつても垣がなく、池があつても鯉がない。魚偏󠄁のつくのは鮮と鯨だけ。植木はあるが鉢がない。花󠄁があつても花󠄁甁がない。布があつても鋏がない。着物があつても簞笥がない。本があつても棚󠄁がない。箱があつても蓋がない。机はあるが子がない。庫はあるが鍵がない。繹子も親もない。刀があつて槍がない。その代り筆あり紙あり墨がある。さすがは文化󠄁國家、これは有難いと思つたら硯がない。行書があつても書がない。封があつても便がない。葉書があつても投函できない。雨が降つても傘がない。足がない。畑はあるが鍬がない、鋤もない。窒素はあるが燐がない。年寄りがあるのに杖がない。船があつても錨がない。港󠄁はあるが棧橋がない。行きがあつて戾りがない。女房󠄁があつて主󠄁がない。哺育もなければ、子供も𠮟れない。元帥があるのに軍がない。金があつても布がない。田がないのに稻があり、米があつても粟がない。臼もなく、杵もないから餠もない。酒があつても樽がない。大阪に阪もなければ、岡山に岡もなく、茨󠄁城、木、玉、神川、山、岐、愛媛󠄁本、新良、沖、いづれも半󠄁在主󠄁權でおぼつかない。

 尤も右は數年前󠄁に作られたものなので、今囘「當用漢字に加へても良いと思はれる字」四十七字中の「僕・誰・戻・汁・倍・亭・泥・皿・垣・傘・曹・泡」なども含まれてをりますが、それにしても同じ四十七字中の「仙・涯・伺・槽・厄・洪・酌」等々と同程󠄁度に、或はそれ以上に「加へても良いと思はれる字」が幾らもあるではありませんか。そこに問題があるのです。漢字は要󠄁ると言ひ出せば、どれも必要󠄁ですし要󠄁らぬと言ひ出せば、必要󠄁なものは何も無くなる。今私は四十七字と同程󠄁度に、或はそれ以上にと申しましたが、同程󠄁度とか、それ以上とか言ふその基準は何處にあるのでせう。誰がそれを決めるのか、何を根據にそれを決めるのか。今日の審議の資󠄁料としては、國立國語硏究所󠄁が昭和三十一年度の雜誌について調󠄁査した「現代雜誌九十種の用語・用字」を用ゐ、その中で使用度數八囘以下の當用漢字百七十七字と使用度九囘以上の表外漢字三百二十三字を參照したとあります。これは八囘以下のものを現行當用漢字表から削󠄁つても良いと思はれるもの、九囘以上のものをそれに加へても良いと思はれるものとして、それぞれ檢討したといふ意󠄁味でせう。これについても常識は次󠄁の樣な疑問を懷きます。

(一)なぜ三十一年度の雜誌が基準になるのか。二十年度、四十年度のものはなぜ基準にならないのか。

(二)今それが基準になるとしても、この調󠄁子では十年後の第何期󠄁かの審議會は四十一年度の調󠄁査を基準にして再び當用漢字の出し入れを審議する事にならないか。

(三)さうなると、殊に當用漢字を守りたがる新聞やNHKは四十年には三十一年度の慣用に隨ひ、五十年には四十一年度の慣用に隨つて漢字を使ひ、一般社會もそれに倣ふといふ妙な事になりはしないか。

(四)使用度數、八囘と九囘との間に漢字使用についての個人の自由を左右する本質的󠄁な差がどうして認󠄁められるのか。

(五)更に使用度數によつて一々の漢字の重要󠄁性を決める事が果して出來るのか。いや、出來ないからこそ、それぞれの中から削󠄁るべき三十一字と加ふべき四十七字を選󠄁び出した筈で、それならその基準は何處に置いたのか。またその基準が明󠄁確であるなら、八囘だの九囘だのは問題にならず、一囘でも加ふべきものがあり、十囘でも削󠄁つても良いものがある筈ではないか。

 以上の五問に對しても、大臣は恐󠄁らく私と同感であらうと思ひます。要󠄁するに、問題は當用漢字の字數にあるのではなく、その性格にあるのです。その出し入れや增減を審議するのは二の次󠄁であるばかりでなく、そんな事は國語審議會の任務ではありません。それと關聯して「發音󠄁のゆれ」などといふ事を審議會で檢討し、今度もその報吿を出してをりますが、「赤化󠄁」「石衣」は「セッカ」「セッカイ」で、「適󠄁格」「的󠄁確」はどちらとも言へず、「液化󠄁」「激化󠄁」は「エキカ」「ゲキカ」と認󠄁められるなどと愚かな論議を重ねてゐる樣です。「敵機」と「敵艦」の「敵」はどちらが「テキ」で、どちらが「テッ」か、大臣はお答へになれますか。現代假名遣󠄁では前󠄁者は「テッキ」が正しく、後者は「テキカン」が正しい、お前󠄁達󠄁はさう書き、さう發音󠄁しろと審議會も文部省もおつしやる。このお前󠄁達󠄁の中には勿論文部大臣も含まれてをりますが、それを御承知でしたか。「日本」は「ニホン」が正しいか「ニッポン」が正しいかとか、「むつかしい」と「むづかしい」とどちらが正しいかとか、「胡瓜」は「きうり」か「きゅうり」かとか、そんな議論はいづれも同樣、愚にも附かぬ閑人の道󠄁樂でしかありません。それは「發音󠄁のゆれ」などといふものではありません。何處の國にもある事で、「ゆれ」ではなく「多樣性」であります。

 一口に言へば、第七期󠄁の審議會は尤もらしい審議報吿を出してはをりますが、それは何もやらなかつたといふ報吿に過󠄁ぎません。第六期󠄁にしても同樣です。その前󠄁も同樣です。なぜなら當用漢字の出し入れについても、「言葉のゆれ」についてもここ十何年に亙つて文字通󠄁り十年一日の如く、どの期󠄁の審議會も繰返󠄁し審議して來た事だからです。そればかりでなく、そんな事なら國語硏究所󠄁やNHK放送󠄁硏究所󠄁の方が良かれ惡しかれもつと組織的󠄁に硏究してゐる事です。宇野精一委員が「第七期󠄁は何もやらなかつた事にならぬか」と言つたのに對し、池田彌三郞委員が「それは違󠄂ふ、字の出し入れを始めたといふ事で第七期󠄁の成󠄁果は大きい」と答へてをりますが、私はそれを聽いて、慶應義塾大學の理事はさすがに違󠄂ふ、銀行に金の出し入れを頻繁に行ふ事によつて同じ金を大きく見せ、相手を信用させたり、時を稼いだりする手を知つてゐるわいと感心しました。ついでに言へば「塾」の字が加はつたのは、早稻田大學と等しく慶應義塾大學も當用漢字で表記出來る樣にしたいといふ早慶戰心理から出たものかも知れません。とにかく審議會は何もやらなかつた、ただ第七期󠄁のそれは當用漢字の出し入れをやつた事によつて、何かをやつたかの樣な見せ掛けを行つただけです。何の爲にそんな事をやつたかといふと、それは單に時を稼ぐ爲にほかなりません。

 その事を何よりも明󠄁白に語つてゐるのは吉田提案の握り潰しです。吉田氏は昭和三十六年春、第六期󠄁國語審議會員に選󠄁ばれ、二期󠄁四年間に亙つて終󠄁始一貫同じ提案を繰返󠄁して參りました。それは國語審議會が審議の對象とする國語は、(將來はいざ知らず)漢字假名交り文である事を前󠄁提とし、それを國民の前󠄁に公表するといふ事であります。氏はこの提案を第六期󠄁の第一囘總會の席上で行つたのですが、後でその記錄を受󠄁取つた處、氏の提案がそこには一言も出てゐない事を發見して驚き、次󠄁の總會の時にはわざわざ文書にして改めて同趣旨の事を提案してをります。氏の諒解を得て左にそれを引用します。

議  案

 國語審議會が「國語」に關して審議する立場を、次󠄁の如く規定して、これを公表する。

 「國語は、漢字假名交りを以て、その表記の正則とする。國語審議會は、この前󠄁提の下に、國語の改善を審議するものである。」

提案理由

 提案の問題の主󠄁體は、話し言葉にではなく、國語の表記にあります。換言すれば、如何なる文字を以てするのを國語表記の正則とするか、その點を明󠄁示する事であります。

 いかにも自明󠄁の事を、ことさらに問題とする樣に見えるかも知れませんが、明󠄁治以來今日に績く國語問題の紛糾は、その根元に於て、右の一點をあいまいにしたまま、ときには意󠄁識的󠄁に不問に附したまま、論議を重ねて來たところに、その原因を有すると考へられます。

 國語問題と國字問題とが、しばしば同義であるのは、國語問題の本質をなすものは、文字そのものである事を物語ります。その文字のうちでも、漢字が特に問題である事は、既に明󠄁白であります。

 明󠄁治の初頭に於て、始めて西洋文明󠄁に接して起󠄁つた國語問題は、先づ漢字全󠄁廢論を以て始まりました。國語の表記を假名文字・ローマ字等の表音󠄁文字表記に變へようとする論或は運󠄁動が、必然的󠄁にこれに伴󠄁ひました。この「漢字全󠄁廢」を究極の目標に置いて、その中間手段として、漢字の制限、假名づかひの表音󠄁化󠄁等の運󠄁動が起󠄁りました。

 政府の國語政策は、時勢、國運󠄁、思想の動向等によつて、變動、浮󠄁沈があり、國語問題の審議にも紆餘曲折がありましたが、要󠄁するに、國語問題、國語政策を引き廻はし、その紛糾の原因をなしたものは、表面に出ると出ないとに拘らず、明󠄁確に意󠄁識されるとされないとに拘らず、漢字全󠄁廢論に根ざした國語改革思想でありました。この事は、國語問題の歷史からみて否定し得ないところで、今日に到るまで同じ線で續いてゐます。

 倂し、提案者個人にとつては、漢字假名交り文を以て表記する言葉以外のものを、「日本語」として念頭に描くことはできないのであります。日本語から漢字と假名とを取り去り、「音󠄁」だけを殘し、これを如何なる表音󠄁文字、または記號を以て表記してみても、それを「國語」と考へることはできません。

 勿論、これは飽󠄁くまで私見であります。國語學或は言語學を專門としない一人の日本人の感覺に過󠄁ぎませんから、議論はあると思ひます。そこで提案者の願ふのは、果して議案に述󠄁べた樣に、「國語」或は「國語問題」を規定して、これを國語審議會の名に於て廣く公表することができるものかどうか、その審議であります。

 審議の結果、この大前󠄁提が明󠄁示されることになるならば、それは、漢字と假名とは國語表記の要󠄁素、卽ち「國字」である事が確認󠄁された事を意󠄁味しますから、漢字の使用に對して、或る範圍の制限をつける施策にしても、その限界は、現實に卽して、自ら餘裕のあるものとならざるを得ないでせう。假名づかひの問題にしても、單に發音󠄁通󠄁りに近󠄁づけるだけの目的󠄁のために、無理を敢てしないでもすむ樣になりませう。漠字と假名とを、日本語の文字、卽ち國字として、最大に尊󠄁重しながら、その上で、國語の表記を、正確に、平󠄁明󠄁に、美しくするための審議は、廣く日本人の良識に訴へて、樂しく、漸進󠄁的󠄁方法を以て進󠄁められる樣になるでありませう。國語敎育に於ても、先づ子供たちに何を敎へるべきか、何に據らしむべきか、敎育の基本が確立され得るでありませう。

 世には、國語を愛し、從つて政府の國語政策に對しては多大の關心を以てこれを見張つてゐる人ゝが、決して少くはありません。またこれらの人々のうちには國語問題のこれまでの經過󠄁に鑑み、政府の基本的󠄁態度に不審の念を抱󠄁いてゐる者も少くありません。

 いま國語問題は、如何なる根本理念により、何を目標として、審議されてゐるのであるか。平󠄁たく言へば、政府は我々の國語を何處へ持つて行かうとしてゐるのか。そこに疑惑の念を抱󠄁いてゐる人は決して少くありません。今もし、國語の表記と國字に關する基本的󠄁立場が、上述󠄁の如くに明󠄁示されるならば、これらの年來の疑惑は一掃󠄁され、國語は全󠄁國民と共にその本來の明󠄁るい大道󠄁を步み、全󠄁國民の手によつて、正しく、美しいものに育てられて行く樣になるだらうと思ひます。

 但し、この提案は、國語を、場合によつて、ローマ字、カナ文字等を以て表記し、傳達󠄁・通󠄁信の利便と能率󠄁の向上とに資󠄁する方法の活用と硏究とを排するが如き意󠄁圖は、毛頭これを有するものではありません。むしろ、これらの副次󠄁的󠄁國語表記の硏究と、より有效な方法の開發とは、益ゝ助成󠄁、奬勵さるべきものであると考へてゐます。倂し、飽󠄁くまで留意󠄁すべきは、これらはどこまでも副次󠄁的󠄁、便宜的󠄁表記法であつて、國語の正則の表記の問題とは別個である點だと思ひます。

 國語は、國の文化󠄁の根元であり、一人ゝゝの國民の思想そのものであります。單に傳達󠄁、通󠄁信するための便宜上、何らかの表音󠄁記號に假託する機械的󠄁手續の問題と、思想が據つて以て立つところの國語の問題とは、別個であります。兩者は峻別すべきで、混同されてはならないと考へます。況んや、後者の立場だけから前󠄁者を論ずるが如きは、嚴に誠󠄁むべきでありませう。

 終󠄁りに一言附言致します。

 提案者は、自分が今「國語」として自覺し得る樣な國語を問題としてゐるのであつて、極めて遠󠄁い將來に、日本人の言葉が如何なる變化󠄁を示すものであるか、それが「如何なるものであるべきか」等を問題としてゐるのではありません。これは極めて大きな民族文化󠄁史の問題であります。專門的󠄁學問の硏究課題としても、廣大な規模と年數とを要󠄁する大問題だと想像します。或は、この種の問題は、想像を絕するものといふべきでありませう。

 それは、例へば、遠󠄁い將來に、日本民族はこの四つの島から散らばつて、地球上の何處にどう擴散するのであらうか、その時の日本人は「如何にあつたらよいのか」――さういつた問題と同じであります。從つて、今の國語審議會が、この種の遠󠄁い未來を念頭において審議を進󠄁めるのであれば、我ゝの如きが意󠄁見をさしはさむ餘地は全󠄁くない事を、提案者は自覺してゐます。

 提案者は今この提案理由を考へ、書きながら、漢字と假名とで物を考へてゐます。それ以外の事はできないのです。これは嚴しい事實であります。いま小學校に通󠄁つてゐる無數の日本人の子供たちにも、この私のものと同じ道󠄁以外のものはないのでありませう。卽ち現實に考へ得る限り、國語は日本人の思想そのものであり、現實に日本人が所󠄁有する文化󠄁の根元だと信ずるのであります。

 國が國語を如何なるものと考へ、それを如何に尊󠄁重し、如何に愛するか。それを明󠄁示し、子供たちに國語學習󠄁の據り所󠄁を興へ、學習󠄁の重要󠄁性を知らしめることは、國民の思想の形成󠄁に、或は日本人の人間形成󠄁に、何者にも優先する重大要󠄁件であると信ずるのであります。不敏を顧󠄁みず、敢てこの提案を試みるのは、このためであります。

 

 この提案に贊成󠄁するとしないとを問はず、審議會はその底に潛む氏の情󠄁熱と誠󠄁意󠄁とを無視する事は出來ぬ筈です。氏自身もこれに贊成󠄁しろと言つてゐるのではありません。自分はかく信じるが故に、かく提案する、その自分の提案を審議し、採󠄁否を決めてくれと言つてゐるのであります。が、審議會はこれを無視しました。しかも甚だ晒劣な手段を用ゐたのです。總會の度にこの提案を繰返󠄁されるのを防ぐ爲に當時の第一部會長村上俊賣氏は吉田氏に會ひ、第六期󠄁の最後の審議報吿には必ず氏の意󠄁圖を盛󠄁込󠄁むから、安心してゐてくれといふ事で、氏の口を對じてしまつたのです。勿論、最終󠄁報吿には氏の提案は完全󠄁に無視されてしまひました。吉田氏はまんまと瞞されたのです。

 しかし、吉田氏は昭和三十九年春第七期󠄁に再選󠄁されるや、直ちに同じ文書を再び提出してをります。

 そして、その附記にはかうある、「提案者は、本提案と同一の提案を第六期󠄁國語審議會に於て行ひましたが、第六期󠄁に於ては提案として審議をされるに到りませんでしたので、再度提案する次󠄁第です。」そればかりではありません。同提案と同時に、「國語に於ける傳統の尊󠄁重について」「現代假名遣󠄁制定の基本方針について」「小學校の漢字敎育について」の三提案を附屬文書として提出してをります。が、第七期󠄁においても事態は一向變りませんでした。といふより、握り潰しの方法は更に陋劣を極めたと言ふべきでせう。常に時間切れで審議未了に持つて行く。それはまだ良い方で、四時から結婚式場になる樣な會場を選󠄁び、氏の提案を最後に廻し、結婚式の邪魔󠄁をする譯には行かぬといふ事で、次󠄁囘廻しといふ手まで用ゐてをります。

 それを知つた私達󠄁は國語問題協議會の名で大臣に面會を求め、何故その樣に吉田提案が默殺されるのか、實情󠄁を調󠄁査し、御囘答を頂きたい旨、これまた文書を以て申入れると同時に、審議會の在り方に疑問を持つ學者、作家、有識者等二千名の署名もお屆けして置きました。勿論、憶えておいでの事と思ひます。更に日本文藝家協會も森戶辰男審議會長に對して、同樣文書を以て、吉田提案默殺の理由を問ひ匡してをります。そして、つひに最後の總會である十二月󠄁九日を迎󠄁へたのです。氏はその時「提案の趣旨についての再度の說明󠄁」といふ文書を改めて作製し、それを提出してをります。

 處が、森戶會長の態度は更に硬化󠄁してをり、宇野精一委員が「吉田提案の審議を先にすべきではないか」と言つたのに對し、他の委員にその是非を諮󠄁らず、濁斷で「第一部會の審議經過󠄁を先にする」と言ひ、例の當用漢字の出し入れや「言葉のゆれ」の審議報吿が行はれました。その間、鹽田良平󠄁委員が「吉田提案の否決に對する質問書が文藝家協會から提出されてゐる以上、これに答へるべきだ」と強調󠄁してをりますが、これも森戶會長は「後で審議する」と一蹴してをります。さて、最後に吉田提案審議の實情󠄁でありますが、それは市原豐太委員が槪要󠄁と私見とを加へたものがありますので、左にその一部を抄錄して置きます。御注󠄁意󠄁願ひたいのは、市原委員の註にある樣に、森戶會長が提案採󠄁否の決を全󠄁委員に委ねず、自分濁りで否認󠄁し通󠄁した事です。

吉田提案に關して

森戶 前󠄁の總會で最終󠄁的󠄁にどうするかが決定されなかつた。それを含んでこの間題に移りたい。(吉田氏の「提案の趣旨について再度の說明󠄁」といふプリントが配られる。)

吉田 さきの提案が皆さんに十分に理解されたとは思はれぬので書類によつて理由を說明󠄁したい。(讀みながら說明󠄁する。)(趣旨の要󠄁點は明󠄁治三十五年、文部省の「國語調󠄁査委員會」が「文字ハ音󠄁韻文字ヲ採󠄁用スルコトトシ假名・ローマ字等ノ得失ヲ調󠄁査スルコト」を方針として決定した、卽ち漢字の廢止、この方針がその後も廢棄、又は修正されてゐない。今でもその方針が、構󠄁いてゐると考へざるを得ない、といふこと。)(吉田氏が讀み終󠄁つたとき、これは提案として上程󠄁されたのであるから、當然議長は、全󠄁委員に向つて、これにつき質疑・意󠄁見の發言を求むべきであつた。然るに森戶議長はそれを全󠄁くせず直ちに自分の意󠄁見を述󠄁べ始めた。)

森戶 吉田氏の意󠄁見の前󠄁提は、「文部省が漢字全󠄁廢主󠄁義を採󠄁つてゐる」といふことか。

吉田 國會でさう決めてゐる。(明󠄁治三十三年、根本正、加藤󠄁弘之ら)

森戶 自分は文相を二囘つとめたが、そのやうな方針を一度も前󠄁の大臣から引繼ぎしてゐない。

吉田 あなたの感想を訊いてゐるのではない。私の提案の適󠄁・不適󠄁をきめて欲しいのである。

森戶 前󠄁提が間違󠄂つてゐる、誰もそんなことを考へてゐる人はゐない。もし決議をし、公表すれば、從前󠄁はそんな意󠄁見があつたのかといふ疑問を人に抱󠄁かせる。民間と文部省が對立してゐると人に思はれる。

石井 文部省の國語政策は「その都度ヽヽヽヽ學者や輿論の批判󠄁と攻擊にあつたヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ」と書いてあるが、それは」一方的󠄁で、これに贊成󠄁する人もあつた。「日本及󠄁󠄁び日本人」にもそれが出た、客觀的󠄁事實の資󠄁料を出して欲しい。

吉田 重ねていふ。自分の意󠄁見が正しくないなら、ないときめてほしい。この前󠄁はおだやかな提案であつたが、それがつぶされたので、強い表現にした。(「強い表現」といふのは第六期󠄁の時は「漢字假名交りを以て、その表記の正則とする」とあつたものを、今囘は「漢字を國字として確認󠄁し、その前󠄁提の下に審議するのであつて、漢字の全󠄁廢を意󠄁圖するものではない」としたこと。)

森戶 歷代の文相と言はれると引掛かる。自分は二度大臣をしたが、そんなことは知らぬ。

吉田 歷史的󠄁事實があるので明󠄁かにした。平󠄁生釟三郞文相の例。

森戶 今の文部省には、そんな考へはない。貴方のは誤󠄁解だ、一人もそんな考への人はゐない、又しひて決議する必要󠄁もない。

吉田 少くとも藤󠄁堂氏の如き人がゐる。

藤󠄁堂 千年、二千年後になくなる、といふのを漢字全󠄁廢論と稱するのはをかしい。自分のは漢字調󠄁整論である。

西尾 吉田氏は明󠄁治初年の漢字廢止論が今も存續してゐるといふ考へらしいがそれは特殊の人だけだ。個人として、ローマ字論者もあるが大勢ではない。それを審議會一般の傾向とし、それを取消󠄁せといふのは不當である、誤󠄁解を招く。

細川 時間も過󠄁ぎた。吉田發言のやうに漢字假名交り文のことを審議してゐるといふことを發表したらよい。

吉田 前󠄁の總會で文書にして欲しいと言つたら、第一部會長は斷つた。

森戶 文書にする必要󠄁はない。口頭でよい、これこれの態度(漢字・假名交り文を對象として)でやつて來た、將來もこれで行くと。

千種 會長には將來のことを拘束する權限はない。

森戶 それは惡かつた。

細川 會長はカナにしようとする意󠄁志はないと言つたが、それをそのまま公表したらよい。

吉田 文藝家協會の質問に答へるか否か。鹽田氏はそれを求めて歸つた。

細川 今囘は會長がはつきり意󠄁見を表明󠄁した。それを公表すればよい。

橫田 吉田提案に贊成󠄁で、當然公表すべきだ、どうしてそれができないのか。會長の言も諒承した、西尾氏すら同じことを認󠄁めた。會員も同感だと思ふ。細川氏の今の發言はよいと思ふ。相常に皆が接近󠄁した。自分は新聞關係者として、そのまま發表して然るべしと思ふ。

調󠄁査局長 宇野氏も一緖であつたと思ふが、國語問題協議會の方ゝが中村文相に會つたとき、吉田提案の話が出た、大臣は漢字假名交り文は當然だと思ふ、と言明󠄁した。だから今は少くとも宇野氏の心配されることはない。

吉田 文相の意󠄁見は自分と同じで、「漢字の全󠄁廢は毛頭考へない」といふ、その言明󠄁を公表すべきでないか。明󠄁治三十五年にきめたやうなことは、今はもう誰も考へてゐない。今後とも考へない、といふことを、なぜ公表できないのか。

森戶 文藝家協會の質問は「吉田提案を否決した理由ヽヽヽヽヽヽ」といふのだが、否決した事實はない。從つて理由の說明󠄁の必要󠄁はない。

平󠄁林 默殺でなく、その旨を返󠄁事して欲しい。

森戶 さういふことを文書で答へた例はない、向うから聞きにくれば口頭で答へる。

吉田 「漢字全󠄁廢を意󠄁圖するものではない」といふことを「公表できない」といふ結論か、不滿である。以上

(散會後、前󠄁の委員會で文部省側が約󠄁束した運󠄁營委員會の議事錄を一般の委員に屆けることが實行されてゐないので、鹽田事務官に、私(市原)が質したところ、「運󠄁營委員會の議事錄は一般委員には送󠄁らないことになつてゐるので」と斷られた、不明󠄁朗なやり方だと思つた。)

 市原氏の言ふ通󠄁り全󠄁く不明󠄁朗な遣󠄁り方です。尤も何も御存じ無い大臣の目から御覽になれば、森戶氏が何等かの理由によつて頑強に吉田提案を卻けてゐるといふより、寧󠄀ろ吉田氏の方が何故にさう片意󠄁地に自分の主󠄁張を押し通󠄁さうとしてゐるのかお解りにならぬかも知れません。その間の事情󠄁を明󠄁かにする爲、私は次󠄁の二つの事實を附け加へて置きたいと思ひます。第一は右の遣󠄁取りの中にもある樣に、なるほど歷代の文相がすべて表音󠄁主󠄁義者であつたといふのではありませんが、國語調󠄁査委員會が明󠄁治三十五年に「文字ハ音󠄁韻文字(フオノグラム)ヲ採󠄁用スルコトヽシ假名羅馬字等ノ得失ヲ調󠄁査スルコト」と明󠄁記してゐる事は確かな事實です。そして、その方針は、森戶氏始めその辯護に當つた人ゝが遠󠄁い昔の話に過󠄁ぎぬといふのは噓で、現在の國語審議會においても陰に陽に踏襲されてをり、現に第五期󠄁末、五人の脫退󠄁委員を出し、九箇月󠄁の墨白の後、第六期󠄁を成󠄁立せしめた新國語審議會令においても、その第一條所󠄁掌事務として次󠄁の樣に明󠄁記されてをります。

 國語審議會は、文部大臣の諮󠄁問に應じて次󠄁に揭げる事項を調󠄁査し、及󠄁󠄁びこれらに關して必要󠄁と認󠄁める事項を文部大臣及󠄁󠄁び關係大臣に建議する。

一 國語の改善に關する事項

二 國語の敎育の振興に關する事項

三 ローマ字に關する事項

 問題はこの(三)に在ります。明󠄁治三十五年の「音󠄁韻文字ヲ採󠄁用スルコトヽシ」に較べれば、「ローマ字に關する事項」といふのは頗る曖昧な表現です。もし大臣が國語課の廣田榮大郞氏をお喚びになり、その意󠄁味をお訊ねになれば、氏は恭しくかう答へるでありませう。處で、右の「頗る」は今日「甚しく」が當用漢字の仲間入りを許されたのに反して、未だ村八分になつてゐる一例であり、「恭しく」は舊臘始めて追󠄁放の憂き目に遭󠄁つたものであります。冗談はさて置き、廣田氏はかう答へるに違󠄂ひ無い、「ローマ字に關する事項と申しましても、國字をローマ字化󠄁する意󠄁圖を繼承するものでは決してございません。それは日本語の音󠄁韻を理解する爲の手段でございまして、譬へば、(ka・ki・ku・ke・ko)(ha・hi・hu・he・ho)と敎へますと、母音󠄁(a・i・u・e・o)と子音󠄁(k・b)との關聯が理解し易くなるからでして、現在の國語敎科書の中にローマ字の文章を入れて學習󠄁させてをりますのも、それを審議會令第一條の(必要󠄁と認󠄁める事項)と看做したからでございます」と。

 しかし、大臣、瞞されないで頂きたい。子供が母音󠄁と子音󠄁との關聯を覺えたからといつて、それがどうして日本語の音󠄁韻を理解するのに役立つでせうか。「ガス」のガ音󠄁と「だが」のカ音󠄁(鼻󠄁濁音󠄁)の區別を(ga・gi・gu・ge・go)では假名文字同樣、識別できません。自分が「敵機」を「テッキ」と言つてゐるか「テキキ」と言つてゐるか、その自覺を懷かせる事は出來ません。ガとガとの發音󠄁の差はローマ字によつて理解したり、習󠄁得したりするものではなく、體で覺えるものであります。一步讓つて、その爲にローマ字が必要󠄁だとしても、それなら五十音󠄁圖を繰返󠄁し敎へれば濟む事で、國語敎科書の中にローマ字による文章を載せ、それをすらすら音󠄁讀、目讀する訓練をする必要󠄁が何處にありませう。さうしてゐる以上、審議會は表音󠄁化󠄁の意󠄁圖ありと疑はれても致し方は無く、それを解消󠄁する爲には吉田提案に答へて、その意󠄁圖は無いと文書によつて公表すべきではないでせうか。いや、その前󠄁に審議會令を改めて第一條の(三)を削󠄁除すべきであります。

 第二に、第五期󠄁の最終󠄁總會で宇野精一、鹽田良平󠄁、成󠄁瀨正勝󠄁、舟橋聖󠄁一、山岸德平󠄁の五委員が脫退󠄁し、それを機に國語問題が國民の間に空前󠄁の關心を惹き起󠄁し、新聞、テレビ、ラジオを賑はせた事は御記憶に殘つてゐると思ひます。その後も第六期󠄁、第七期󠄁と審議報吿の結果が新聞に出る樣になつたのも、あの事件の爲であつて、それ以前󠄁には國語審議會が各期󠄁に何をやつてゐるかなどといふ事を新聞は採󠄁上げはしませんでした。その時以來、國語問題の焦點は審議會に表音󠄁化󠄁の意󠄁圖ありや否やといふ事にあつたのです。とすれば、第六期󠄁の最初の、且つ最大の仕事は、當用漢字や現代假名遣󠄁の部分的󠄁檢討などではなく、國語審議の在り方の根本を定める事でなければならず、殊に、表音󠄁化󠄁の意󠄁圖の全󠄁く無い事を明󠄁かにするか、或はそれも考へてゐるといふ事を明󠄁かにするか、いづれかの態度を公表すべきだつたのであります。吉田提案はその必要󠄁を促したのであつて、氏自身は言ふまでもなく前󠄁者の考へ方でありますが、その自說を押し附けようとしてゐるのではなく、否なら否でそれとはつきり言つて貰ひたいと言つてゐるのに過󠄁ぎない。氏の提案は謂はば踏檜であります。五委員の脫退󠄁を見るまでは、表音󠄁主󠄁義などといふ言葉すら國民には馴染みの無いものでした。それが問題になり出した以上、現在、漢字假名交り文が行はれてゐるからとか、當用漢字があるのは漢字を認󠄁めてゐるからとか、そんな事で吉田提案を囘避󠄁し、根本の態度を表明󠄁せずに第八期󠄁に逃󠄂げ込󠄁む事は許されなかつた筈です。

 最後に大臣に重要󠄁な事をお傳へして置きたい。それは何かと申しますと、市原委員が國語課の鹽田事務官に運󠄁營委員會議事錄の提出を要󠄁求し斷られたとありますが、その要󠄁錄は公表されてをり、それを見ると、森戶會長が飽󠄁くまで踏繪を拒󠄁否した理由が行間に良く窺はれます。運󠄁營委員會の出席者は森戶會長、池田潔󠄁副食長、古賀逸策、相良守峰、高木貞二、細川隆元、村山俊亮の各委員、文部省側からは蒲生調󠄁査局長、中城國語課長、廣田榮太郞事務官等でありますが、それによつて大體次󠄁の事が解ります。

 第一に吉田提案を總會で採󠄁上げ、審議會として表決を行ひ、その態度を公表すべしといふ考へは、池田副會長が再三に亙つて強調󠄁し、古賀委員がそれに贊意󠄁を表してゐるのに對して、それを頑強に拒󠄁否し通󠄁してゐるのが森戶會長であり、相良、村上の兩委員が交る交るそれを支持してをります。といふ事は、既に吉田提案の採󠄁否は運󠄁營委員會で決つてゐたといふ事です。

 第二に當用漢字の性格がそこで話題に上つてをります。これは私が最初に申上げた最も重大な問題であります。平󠄁たく言へば、それはこれ以上敎へる必要󠄁も無ければ、使ふ必要󠄁も無いといふ枠を示すものなのか、それともこれだけは知つて置くべしといふ最低線を示すものなのか、いづれなのかといふ事です。その邊の會話を抄錄すると次󠄁の樣な具󠄁合になります。

森戶 學校敎育では當用漢字表外の漢字は敎へてはならないのか。

廣田 必ずしもヽヽヽヽ敎へてはいけないとは言つてゐない。現に歷史や地理などの敎科書にはルビを使用ヽヽヽヽヽしてゐる。

池田 文部省では必ずしも敎へてはいけないと言つてゐないにも拘らず、世間一般では敎へてはならないものと受󠄁取られてゐるところに誤󠄁解がある。實際問題としては當用漢字表外の漢字でも覺えれば使用したくなるヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽし、使用すれば當用漢字表の意󠄁味がなくなるといふ處に問題があるのであらうヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

廣田 學術󠄁用語や固有名詞關係の字は當用漢字表から省いてあるものだから、許容といふ槪念が生じてゐるのだが、それらを常用漢字表內に取入れると、常用漢字表の意󠄁味がなくなつて來るヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ。なほ敎育漢字と當用漢字との關係をその成󠄁り立ちから述󠄁べると、始めは一八五〇字の當用漢字から漸次󠄁八八一ヽヽヽヽヽ字の敎育漢字に近󠄁付けようといふ構󠄁想ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽであつた。それが現在では寧󠄀ろ敎育漢字を當用漢字に寄せようといふ空氣の方が強い譯である。

 傍點は私が附けたものですが、それを注󠄁意󠄁してお讀み下されば、審議會の、といふより、今やはつきり國語課の事務官であり、現代日本の表記法を左右してゐる「名著」隱れたるベストセラー「現代用語用字辭典」の著者である廣田榮太郞氏の意󠄁圖がはつきりすると思ひます。森戶氏はその傀儡に過󠄁ぎません。願はくは大臣までその傀儡とならざらん事を。何の事は無い、當用漢字の性格、その位置附けこそ最も重大な問題であるといふ事は、運󠄁營委員會において既に十分に自覺されてゐたのであります。それにも拘らず、これを第六期󠄁、第七期󠄁の四年間、總會において問題とする事を避󠄁けて來たといふ事になります。朝󠄁日新聞では、審議會が當用漢字表は當用漢字の「基準」(現行では「範圍」)を示したものとすると發表したとありますが、もしさうならば「基準」とは最低を意󠄁味するものであり、「範圍」とは最高を意󠄁味するものでありますから、これは大革命であつて、廣田氏の言ふ通󠄁り「當用漢字表の意󠄁味がなくなる」事になります。尤も當用漢字ヽヽヽヽ表は當用漢字ヽヽヽヽの「基準」といふのは意󠄁味をなしません。恐󠄁らく何かの間違󠄂ひだと思ひます。いづれにせよ、重大な問題を重大と自覺しながら、それ故に總會の話題にしたがらなかつたといふ事は許すべからざる事であります。

 最後に、この審議會の不明󠄁朗な在り方を匡すため、大臣に對して二つの事を申入れて置きたい。その一つは、國語問題協議會、日本文藝家協會が、それぞれ大臣、及󠄁󠄁び審議會長に提出した吉田提案處理に關する質問狀に何等かの御回答を下さる樣お願ひすると同時に、第八期󠄁の審議會に對して、漢字の出し入れや「言葉のゆれ」を檢討する前󠄁に、先づ國語審議の根本方針について再檢討する樣、御要󠄁請󠄁下さる樣お願ひ致します。その二は第七期󠄁委員の顏觸れを見ますと、現國語國字改革を支持する人とそれに對して根本的󠄁な疑問を持つ人との割󠄀會が凡そ二對一になつてをります。それが運󠄁營委員會、總會における不明󠄁朗の原因であります。隨つて第八期󠄁の人選󠄁には格別の御配慮をお願ひ致したく、國語課の事務官に任せ放しになさらぬ樣、と言つても、大臣に直接人選󠄁せよとは申し兼󠄁ねますので、私共の方から數名自薦の形を採󠄁りますから、當事者においてそれを無視せぬ樣、御高配願上げます。

(本揭載は著作權者の許可を得てゐます。追󠄁つて編󠄁注󠄁を附します(七月󠄁十三日)。轉載を禁じます)

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