漢字の傳來と假名の發生

我國に漢字が傳へられたのは應神天皇の十六年の時であると言はれてゐるが、實際にはもつと以前に傳へられてゐたと考へられる。それはともかく、應神天皇の時に、百濟の王が阿直岐といふ者を使者として、二頭の良馬を天皇に獻上したこと、またそれがきつかけとなつて、王仁が論語と千字文を持つて百濟からやつて來たことは、『古事記』や『日本書紀』によつて知ることが出來るが、どこまで信用できるものか甚だ疑はしい。いづれにしても、その頃中國、百濟、新羅、任那などの歸化人が、漢字を通して大陸の文化を日本へ傳へたことは確かである。

神代文字の存在をを主張する學者もあるが、多くの者を説得するに足る論據に乏しいやうである。漢字傳來以前に、日本に固有の文字がなかつたと斷定することは出來ないが、固有の文字が存在したと主張することは、それ以上に不當なことであると言へよう。

假に存在したとしても、文字としての機能を備ヘ、社會一般に公の文字として通用するやうになつたのは、漢字を以て最初とせねばならぬのであり、漢字傳來以前には、變革を要するほどの日本固有の文字(神代文字)は存在しなかつたと言ふべきである。

五、六世紀に造られた太刀や青銅鏡の銘文により當時の文章を見ると、ほぼ漢文で書れてゐるが、ところどころに和文の語法をまぜたり、固有名詞などを漢字の音と訓とを用ゐて書いたりしてゐる。隅田八幡神杜に傳はる鏡の銘文には、

癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長奉遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

とあり、意柴沙加宮は忍坂(オシサカ)の宮で、開中費直は河内(カフチ)の直(アタエ)、今州利は(イマスリ)といふ人名であらうと言はれてゐる。

漢字が我國へ傳へられた當初は、何か書かうとすれば、漢字漢文による以外になかつたのであるが、やがて日本語をそのまま表現するために、漢字の音訓を利用して、元來表意文字である漢字を表音文字として用ゐるやうになつた。今日それを萬葉假名と稱してゐるが、それは國語を表はすのに、それと同音の漢字を用ゐたもので、漢字は同音でさへあれば何でもよいのであるから、種々の文字を勝手に使用したのである。

それが平安時代に至つて、主として漢字の省略字體が片假名となり、草書體が平假名となり、それが廣く用ゐられるやうになつたのであるが、最初片假名は佛典などの傍に附して用ゐられた。それがやがて本文の中にも使用されるやうになり、遂に『伊勢物語』のやうな片假名で書かれた物語が現はれた。

一方、平假名は平安時代において、主として婦人の間で、消息文や和歌などに用ゐられたものであるが、次第に歌集、日記、物語、草子などにも盛んに用ゐられるやうになつた。

片假名は何種かの同音の漢字の一部を抽出したものであり、平假名は同音の何種かの漢字の草書體から出たものであるため、いづれにも數種の異體があつたのであるが、徐々に統一され、江戸時代に至つて今日とほぼ同形の假名に落着いたわけであるが、各一體に統一されたのは、明治三十三年のことであつた。


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