假名遣の問題

奈良時代以前の萬葉假名が用ゐられた時代には、同じ音に對しては種々の文字を用ゐてゐるが、音の異なる場合には別の文字を使用したやうであり、ア行とヤ行の「エ」を區別し、「キ、ケ、コ、ソ、ト、ノ、ヒ、ヘ、ミ、メ、ヨ、ロ」など十二の假名は、それぞれ二様に區別して用ゐられてゐる。

ところが、平安時代に至つて、過去にはなかつた音が發音されるやうになつたり、過去には區別して發音してゐた類似音が消滅したりしてゐる。前者は漢語の移入にともなつて起つたと考へられてゐる長音、拗音、撥音、促音などであり、後者は奈良時代以前の十二の假名の發音上の區別、ア行とヤ行の「エ」の區別、更に平安時代前朝の「イ」「ヰ」「ヒ」、「オ」「ヲ」「ホ」、「エ」「ヱ」「ヘ」、「ワ」「ハ」、「ウ」「フ」などの區別が消滅したことである。このやうに次第に假名と發音との間にずれが生じ、鎌倉時代に至つてその混亂が更に大きくなつた。

そこで假名の用法を整理統一しようとしたのが藤原定家であり、「を、お」「い、ゐ、ひ」「え、ゑ、へ」の三類八字の假名遣を定めたのであるが、勿論不完全なものであり、語中語尾の「ふ」と「う」、「ほ」と「お」は當時既に同一音化してゐたが、それについての書分けがなく、語數も全部で六十餘に過ぎない。その後、源親行の孫である行阿が、「ほ、わ、は、む、う、ふ」の六字を補ひ五類十四字の假名遣を定めた。これが『假名文字遣』であり、後世に定家假名遣として傳へられたものである。

後に、長慶天皇及び僧成俊によつて、定家假名遣は『萬葉集』と一致しないといふ指摘を受け、更に契冲によつても同樣の批判を受けるに至つたのであるが、最近大野晋が院政期のアクセント資料に基づき、定家の「お」「を」の假名遣が當時のアクセントによることを證明し、非難の原因がアクセントの變遷にあることを論證した。

更に室町時代には「ジ」と「ヂ」、「ズ」と「ヅ」、「アウ」と「オウ」、「カウ」と「コウ」、「サウ」と「ソウ」などに區別があつたものが、江戸時代にはその區別がなくなり、假名遣の範圍が一層擴大されたわけである。

契冲は、平安時代中期以前の文獻における假名の用法を研究した結果、既に同音となつてゐる假名がはつきり遣ひ分けられてゐることに氣づき、平安中期以前の文獻における假名の用法に基づいて假名遣を定め、定家假名遣を訂正した。

契冲の假名遣は平安時代前期の發音を代表するものであるが、それは平安時代前期には「伊呂波」四十七字の假名はすべて異なつた發音をもつてをり、それ等の遣ひ分けに少しも亂れがないからである。

契冲の著はした『和字正濫鈔』五卷は、元祿癸酉(六年)二月二十有一日の序があり、最初に刊行されたのは元緑八年九月である。

その卷一において、假名遣の變遷、定家假名遣、音韻、文字、五十音圖、伊呂波歌、片假名字體などについて概説し、卷二以下において、ア行、ハ行、ワ行の假名遣を、語頭、語中、語尾に分けて、その例語を伊呂波順にあげ、それに出典と考證とを加へ、更にハ行轉呼以外の語音變化によつて、假名遣の紛れ易いもの二十項目をあげ、卷末で音韻、字音、アクセントに關して補説してゐる。『正濫鈔』と定家假名遣との關係は卷一に述べられてゐる。即ち『假名文字遣』の序を掲げた後に

此序によると、行阿は親行の抄を披見せられたりと見えたり。其後失たる歟。世に聞えず。行阿の抄の中に定て皆載らるべし。然るに混亂猶おほきは、親行も世俗流布の假名にまかせられける歟。又行阿の添られたる中にあやまり出來たる歟。又行阿の勘そへられたる、ほわは等にも混亂あり。無用の事もなきにあらず。是によりて、今撰ぶ所は、日本紀より三代實録に至るまでの國史、舊事記、古事記、萬葉集、新撰萬葉集、古語拾遺、延喜式、和名集のたぐひ古今集等、及び諸家集までに、假名に證とすべき事あれば、見及ぶに隨ひて、引て是を證す。

とあり、『假名文字遣』が右に擧げられてゐる奈良時代、平安初期の文獻と一致してゐないために、その濫を正すことを目的として『正濫鈔』を著したことがわかる。更に『倭字正濫通妨抄』『和字正濫要略』などにおいて、契冲の假名遣研究の進歩を知ることが出來るのであるが、なほ例語二千弱のうち、その文獻の明記されてゐない語が三分の一ほどある。

しかしこの契冲の假名遣は、荷田春滿、賀茂眞淵などの國學者の支持を受け、次第に社會に弘まつて行くと共に、揖取魚彦、村田春海などによつて補正された。

また本居宣長は萬葉假名における字音と韻鏡とを對照し、字音假名遣を確立した。更に宣長は『古事記』の研究により、同音の假名でも、ある種の語には、ある一定の文字を用ゐて、それ以外の文字を用ゐないことに氣づいてゐるが、その弟子である石塚龍麿は、更にその研究を進め、遂に「エ、キ、ケ、コ、ソ、ト、ヌ、ヒ・へ、ミ、メ、ヨ、ロ」の十三の假名が二樣に遣ひ分けられてゐることを發見した。その研究の結果は『假名遣奥山路』にまとめられてゐる。

契冲は『和字正濫鈔』において、假名遣の根據を傳統や習慣よりももつと規範的なものに求め、古典にさうなつてゐるからといふだけでは滿足せず、古典にさうなつてゐるのは、さうなつて然るべき理由があるからとなし、それは語義の差であると斷じたのであるが、その間違ひを正したのが石塚龍麿であつた。龍麿は、當時同音になつてゐる假名文字の上代における書分けは、語義の差によるものではなく、既に消滅してしまつた音韻の差であることを明かにしたのである。

また奧村榮實は五十音圖にある同音の「イ」「工」「ウ」について研究し、平安時代初期以前の文獻には、ア行とヤ行の「エ」の用法には區別があるが、「イ」「ウ」には區別のないことを見出した。しかし、石塚にしても奧村にしても、その成果が認められたのは近年のことである。

埋もれてゐた龍麿の『假名遣奧山路』の價値を再發見したのは橋本進吉であるが、橋本は更にその缺陷を補正し、(1)「ゲ」と「ゾ」の假名群にもそれぞれ二類あること、(2)「ヌ」の假名群の二類は「ノ」の二類に相當すること、(3)古事記にも「チ」の二類は認め得ないこと、(4)上代特殊假名遣は上代國語音韻の相違による書分けであることを明かにした。

明治になつて教科書を編纂するに當り、採用されたのが、契冲の歴史的假名遣に多少補正を加へたものであつた。


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