野村公臺の反論と橋本稻彦の辯論

その後十六年を經た天明元年(一七八一年)に、野村公臺は『讀賀茂眞淵國意考』を著はし、漢文を以て反論した。それによると

若夫れ梵字満文之比者、直に音を以て用をなすのみ、義訓ある治國に於に非ず、唯聖人の國、文字を作爲し、名教を記載す皆義訓あり、君子の言、之を用ひて文を成す、遠きに行ふ所以也、

と述べ、次いで

安萬侶の古事を記すや、舎人王の歴朝を起すや然らざるなし、即ち眞淵をして華書を讀まず、華語を假らざらしめば、必ず著作有る能はず、今眞淵の書を讀むに假名を以て行ふと雖も、亦皆本は華語に由り其の志を達する者也、然らずんば則ち又安んぞ立言世に行ふを得んや、今反つて華文を譏り以て無用となす、之を人の劍を奪ひ、其人を賊ひ、其剣を毀て用なしと謂ふに譬ふ。豈大なる罪ならずや、

と、剣に譬へて、漢字を外國の文字として無用となす論の誤りを指摘したのに對し、橋本稻彦が『辯讀國意考』(文化三年、一八○六年)で更にその反論を試みてゐる。

此の論は儒者流の常語にして、いつにても我が古學にせまる時は此事をいふぞかし。

されば全く今の文字は李斯が作爲にもとづく事明かなり。凡て儒者てふものゝ道理にくらく、己が勝手よろしき時は、六經を焼かれ、儒をあなにせられし恨をさへ忘れて、秦王が世に作りし文字や、儒者の冠に小便せし漢王の代の末に作爲せし文字をも、己が聖人の仲間にとのみこみて、「名教を記載し……遠きに行ふ所以也」などとは、をこがましくも能くいふことよ。

又唐士の文字は、義訓あるが故に遠きに行ふといへども、いかほど義をふくめて通ぜず。そのうヘ,文字てふもの、誰にもよまるゝものならぱこそ、聖人の作爲の妙なりしともいはめ。學文をして數年骨を折らではよまれぬをや。されば、餘國はさやうの無用の事に力を費さずして、國用足るが故に漢文字の通ずる國、わずかの數國にすぎざるをや。

と述べた後で、漢字を用ゐなければものが書けないといふことはないと論じてゐる。橋本稻彦は、廣く行はれてゐるものがよいものであると考へてゐるばかりでなく、天竺の梵字や西洋の横文字であれば、學文をして數年骨を折らずともよいと思つてゐるらしい。


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