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二-七 森有禮の英語採󠄁用論

 かうして假名文字とかローマ字國字論が盛󠄁んになれば、それならいつそ英語とか佛語とかに國語を改めたらどうかといふ意󠄁見が出てくるのは當然である。ローマ字論者も假名文字論者もこの意󠄁見には反對してゐるが、國字改革を可能だと誤󠄁認󠄁したと同樣に、それが可能だと誤󠄁認󠄁さへすれば、同じやうに國語改良論を唱へるに違󠄂ひない。ただ彼等はそれがあまりにも無謀で實現の可能性がないことを十分承知してゐるから、敢へて反對してゐるに過󠄁ぎないのだ。不幸にして、國語改良論に對して言へることが、そのまま國字改良論についても言へることに假名・ローマ字論者は氣づいてゐない。二つの論の間にはかなりの隔りがあるが、正常な人の目には、その偏󠄁りを敢へて問題にする必要󠄁のないほど、二者共に無謀なことに見えるのである。

 明󠄁治五年六月󠄁、森有禮は米國在留中にエール大學言語學敎授󠄁ホイットニー(William Dwight Whitney)宛に書翰を送󠄁り英語を以て日本語に代へることを主󠄁張し、ホイットニーの反對を受󠄁けた。森はその書翰をその著、“Education in Japan”(一八七三年)の附錄として印刷したため、內外人の批判󠄁を受󠄁けることになった。森及󠄁びホイットニーの往󠄁復書翰の全󠄁文が、大西雅󠄂雄の譯で昭和十二年の『コトバ』(第七卷・第四、六號)に揭載された。

 ホイットニー宛の森自身の質問書は一八七三年(明󠄁治六年)米紙 “Tribune”に揭載され、同年 “Japan Weekly Mail”に轉載された。後者は、“a flagrant instance of this dangerous superficiality” といふ註釋をつけ、國を危くする皮相な意󠄁見として紹介された。しかし森一人を非難してそれで濟ますわけにはいかない。それには大きな時代の背景があつたのである。森自身の書翰の冒󠄁頭にあるやうに、當時の我國の最高の思想家や有識者の多くが「音󠄁韻文字」への憧憬を抱󠄁き、將來日本は表現力豐かなヨーロッパ語のいづれかを採󠄁用しなければ、とても西洋の文明󠄁國と步調󠄁を合せて行くことは出來ないと考へてゐたのである。この音󠄁韻文字への憧憬が、明󠄁治前󠄁期󠄁を壓倒的󠄁に支配してゐたばかりでなく、今日でもなほその支配から脫し得ないで、鸚鵡のやうに同じ言葉を繰返󠄁してゐる者すらある。

 この森有禮の意󠄁見に對して、ホイットニーは

*一國の文化󠄁の發達󠄁は、必ずその國語に依らねばなりませぬ。さもないと、長年の敎育を受󠄁けられない多數の者は、たゞ外國語を學ぶために年月󠄁を費して、大切な知識を得るまでに進󠄁むことが出來ませぬ。さうなると、その國には少數の學者社會と多數の無學者社肚會とが出來て、相互ににらみあひになって交際がふさがり同情󠄁が缺けるやうになるから、その國の開化󠄁を進󠄁めることが望󠄂まれなくなります。

と、その非を諭󠄀し、馬場辰猪は森の意󠄁見に憤慨し、ロンドンにおいて英文を以て『日本初等文典』を著はし、その序文で日本語の優秀なことを論じた。同文典は日本人によって英語で書かれた最初の日本口語文法書である。


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