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四-二 大西克知の字體變革論

 明󠄁治三十年十二月󠄁、大西克知は『學生近󠄁視の一豫防策』を刊行し、眼科學的󠄁見地から漢字の字體變革を提唱した。先づ大西は、漢字は「眞ニ世界ノ好文字タルニ恥ヂズト雖」その「形象は複雜ナルガ故ニ」近󠄁視の一原因となつてゐると述󠄁べ、次󠄁いで「讀書シ得ベキ最短距󠄁離ヲ調󠄁査スルニ、大槪十三寸ヲ適󠄁度トナスナリ」として、以下實驗結果を

*之ヲ活字ニ見ルニ三號大ノモノト雖、燈下ニ於テハ十三寸ヲ隔テヽ、判󠄁明󠄁セザルモノ少シトセズ。彼ノ四號以下ノ如キハ、素ヨリ學生ノ讀書距󠄁離ニ適󠄁セザルナリ。餘ノ實驗ニ從ヘバ、畫點未ダ複雜ヲ極メザルモノト雖、之ヲ燈下ニ見ルトキハ、五號ハ七寸以外、四號ハ十寸以外、三號は十三寸以外ニ於テ不明󠄁トナルナリ。

と說明󠄁してゐる。當時燈火と言へば、今日のやうな電燈のことではなく、ランプのことであり、大西が標準として使用したものは五分丸心のランプである。隨つて、大西が實驗から得た種々の數値は、當然修正されねばならぬものである。

 次󠄁いで大西は、畫點の太さ、畫點間の空隙の廣さ、正字全󠄁體の太さ、眼を害󠄂はざる正字の標準の四項目に分けて考察し、敎科書用文字の畫點の太さは、燈下において見分けられる眼科的󠄁最細線の二倍、また晝間窓邊において見分けられる眼科的󠄁最細線の三倍を最低限度と定めてゐる。「眼ヲ害󠄂ハザル正字ノ標準」を示した表から一例をとると、讀書距󠄁離十三寸では、橫畫線・縱畫線・橫畫線間・縱畫線間の太さ又は廣さは、各々(〇・三〇)(〇・四〇)(〇・四六)(〇・四〇)ミリメートルで、間畫線は橫縱共に七本で、字の太さは(五・二)ミリメートル平󠄁方となつてゐる。更に、大西は以上の標準に合致しない漢字には省字を用ゐるべきであるとして、最後に「省字例略」を附してゐる。

 この論文は文字と近󠄁視との關係を眼科學的󠄁に究明󠄁しようとしたもので、一面の眞理を突いてはゐるが、大西が主󠄁張するやうな字形に改めたとしても、そのために近󠄁視が減少するとは考へられない。實際には一點一畫の違󠄂ひによつて判󠄁讀することは少なく、文字の字面全󠄁體から受󠄁ける視覺印象によつて、或いは既知の言葉を賴りに讀むのであるから、字畫が繁雜であるといふことよりも、文字が小さいといふことの方が眼に對する影響は遙かに大きいと思はれる。逆󠄁にあまり文字を簡略化󠄁すると、それこそ一點一畫の相違󠄂に氣を配らねばならず、近󠄁視の一原因となるばかりでなく、讀書の能率󠄁を低下させることになる。それ以上に、文字言語の傳統が遮󠄁斷され、その後の國民が文字において二重の負擔を强ひられることを惧れるのである。近󠄁視豫防の一策として、字體の簡略化󠄁を考へる前󠄁に、個人の心掛け一つで解決される事例の多いことを知るべきである。第二次󠄁大戰後實施された字體整理によつて、近󠄁視の學生をどれほど減じ得たといふのであらう。少なくとも近󠄁視豫防の一策として文字を簡略化󠄁することは無意󠄁味であると言ふことが出來よう。ただこの論文は、字體の變革を唱へた最初のものとして注󠄁目すべきものである。


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