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四-三 朝󠄁比奈知泉の提案

 明󠄁治三十一年三月󠄁、朝󠄁比奈知泉は東京日日新聞に「日本今後の文字と文章」を發表し、日本の文字は他の文明󠄁諸國の文字と比較する時、「汽車と早駕籠、電信と飛脚との差別あるを認󠄁むる」として、漢字の弊󠄁害󠄂として「習󠄁ふ爲に要󠄁する時の長きこと」「寫字器械を用ゐる能はざること」「印刷の面倒と無器用」との三點を擧げ、「既に後れたるが上に、二倍も三倍も遲き速󠄁力の器械に依賴して思想の交通󠄁をなし、以て世界と共に文明󠄁の竸走を爲さんこと、其難きは論を俟たず」と論じてゐるが、その論の誤󠄁りであることは、長足の進󠄁步を遂󠄂げた今日の狀體を見れば明󠄁かである。次󠄁いで朝󠄁比奈は「新文字採󠄁用の方法」において

*一、言語文字の智識ある專門の學者を委員として、用うべき新音󠄁符字、其綴方、書方、句點法等を講󠄁究選󠄁定せしむること

 二、國文に堪能なる專門の學者を委員とし、標準日用文章の讀本を編󠄁輯し、新文字を用ゐて出版すること

 三、國語及󠄁󠄁び博言學に堪能なる專門の學者を委員とし、標準日用文章の文法書及󠄁󠄁び之に用ゐる言語の字典を編󠄁輯し、新文字を用ゐて出版すること

など五項目に亙る提案をしてゐる。ここで特に注󠄁目すべきことは、臨時委員會を設置すべきことを主󠄁張してゐることで、當時の世情󠄁の一端を窺ふことが出來る。かうして國語調󠄁査機關の設置を希望󠄂する聲が徐々に高まつて行き、やがてその實現を見るわけであるが、その目的󠄁はいかなる音󠄁韻文字を採󠄁用するかを硏究調󠄁査することにあり、文字を變革することは當然のことと考へられてゐたのである。

 同三十一年五月󠄁、上田萬年、藤󠄁岡勝󠄁二、新村出などによつて「言語學會」が設立され、會長に上田が就任、三十三年二月󠄁から『言語學雜誌』を發行してゐる。


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