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四-四十二 『明󠄁治の漢字』と『敎壇上の漢字』

 明󠄁治四十五年一月󠄁、後藤󠄁朝󠄁太郞は『敎育上より見たる明󠄁治の漢字』を刊行した。後藤󠄁は「字音󠄁假名遣󠄁の問題も久しい問題であるが、內內厄介視せられるぽかりで之を系統的󠄁に整理分類するの必要󠄁は全󠄁く忘󠄁れられたるが如く、全󠄁國民殆んど不關焉の有樣である」として、字音󠄁假名遣󠄁の原理と法則及󠄁󠄁びその學衞的󠄁價値、漢字誤󠄁謬の心理學的󠄁解釋、漢字敎授󠄁法の一案、漢字敎育の將來などについて論述󠄁してゐるが、本書の意󠄁義は、元來字音󠄁假名遣󠄁が不統一無秩序であると思はれてゐたのに對し、漢字の音󠄁符をもとに漢字を整理分類し、そこに一定の秩序を見出したところにある。

 同四十五年七月󠄁、林勇の『敎壇上の漢字』(後藤󠄁朝󠄁太郞校閱)が刊行された。林は、保科孝一の『國語學精義』中の漢字に對する見解を「非論理な、非實際的󠄁な空論たるに外ならぬ」とし

*思ふに、若し學士の主󠄁張せらるヽが如く、全󠄁廢の機運󠄁が熟して來るといふのであらうか。けれどもそれは思はざるの甚だしきものではあるまいか。若し國民の大多數か漢字の不便に飽󠄁きてヾも來たとならば、何で全󠄁廢の必要󠄁があらうぞ、漢字は自然と滅びて行くべき運󠄁命のものではないか。滅びて行くべぎものに對して全󠄁廢を敢へてするは無用ではないか、徒勞ではないか。否大なる無意󠄁義な所󠄁勞ではないか。

と批判󠄁してゐる。また第二編󠄁第六章において、漢字の困難を救濟するには、敎育者が「困難のみで無趣味なものであるといふ舊來の感情󠄁を一洗して、其腦裡を新にして漢字に對すること」が先決であると述󠄁べ、第三編󠄁第一章において、「機械的󠄁記憶を避󠄁けて、觀念聯合と類推作用とを利用すること」「敎授󠄁は理解的󠄁にして且興味あらしむること」「多方面に感官に訴へて記憶を明󠄁確ならしめ、且反覆は意󠄁識的󠄁なること」の三項目を擧げて漢字敎育上の要󠄁點を述󠄁べてゐる。更に後藤󠄁朝󠄁太郞の音󠄁符主󠄁義による宇音󠄁假名遣󠄁の敎授󠄁法を「漢字敎育界の一大革新を促す」ものとして推奬してゐる。それは、例へば「高、嵩、嚆、稿、囿、叔、敲、膏、藁」において、「高」の字の音󠄁「カウ」を知ることにより、他は自ら類推てきるし、また「夭、笑、喬、橋、嬌、矯、笆、蕎」において、「夭」の字の音󠄁「エウ」を知れば、「笑」は「セウ」、「喬」は「ケウ」といふやうに「エ列」の假名であることが類推できるといふわけである。勿論すべてにこの法則を當嵌める嚙めることは出來ないが、字音󠄁假名遣󠄁の習󠄁得がかなり容易になることは確かである。その他にも、林は敎育者としての立場からいくつかの貴重な提案をしてをり、從來の漢字はむつかしいといふ觀念は本書によつて全󠄁く打碎かれた觀がある。今日までの敎育者や國字改良論者は、ただ漢字敎育の困難である所󠄁以を力說するだけで、いかにしてその困難を克服󠄁するかといふことには無頓󠄁着であつた。漢字敎授󠄁法の硏究を疎かにして、漢字の學習󠄁上の困難を克服󠄁することは不可能である。漢字の字數や音󠄁訓を制限したり、字體を簡略にすることは眞の解決を意󠄁味しない。それは單なる困難からの逃󠄂避󠄁であり、困難を克服󠄁したことにはならない。最早そこには文化󠄁の低下はあつても進󠄁步向上はあり得ない。さうしたややもすれば平󠄁易に流れ、困難を囘避󠄁しようとする風潮󠄀の中にあつて、本書ほ眞に困難を克服󠄁しようと試みたものであり、その努力は高く評󠄁價されねばならぬ。にも拘らず、この林の主󠄁張はつひに敎育界において顧󠄁みられることなく、その後も相變らず困難からの逃󠄂避󠄁に汲々としてきてゐるのは實に遺󠄁憾なことである。


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