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五-四 澤柳と藤󠄁岡の意󠄁見

 明󠄁治四十一年に假名遣󠄁問題が一應の解決をみた後、國語國字問題はしばらく下火となってゐたが、大正三年頃から勢を徐々に盛󠄁返󠄁してきた。大正二年の暮から三年にかけて、讀賣新聞を通󠄁じて向軍治、土岐善麿󠄁、田丸卓郞などのローマ宇論爭があり、三年一月󠄁一日の大阪朝󠄁日に上田萬年の「國語及󠄁び國字の將來」が揭載され、次󠄁いで二日に三宅雪󠄁嶺の「國語と國字」、三日に澤柳政太郞の「國語の將來」、四日に藤󠄁岡勝󠄁二の「國語及󠄁國字問題」が揭載された。

 澤柳は「凡そ我國の事物の中で、今後整理改良を圖るべきもの、國語の如く甚だしきものはない」と述󠄁べ、獨逸語にしても、英語にしても外來語を相當含んでゐるが、よく同化󠄁してゐるのに「日本語に於ける漢語は多くは日本語に同化󠄁するに至つて居らない。何人と雖も直に其の和語(やまとことば)と區別して漢語を認󠄁めることが出來る」「抑も漢字は文字の性質から論ずれば、極めて幼稚な原始的󠄁なものであつて、將來我が國民が永く之を用ひると云ふことは、到底忍󠄁ぶことの出來ないことである」と述󠄁べてゐる。

 また藤󠄁岡勝󠄁二は、今は便利な世の中であるが、言葉や文字が世界共通󠄁でないのは不自由なことであると述󠄁べ、次󠄁いで、國內の問題に移り「漢語は外國語でないと思ふことを改めて、此上漢語のふえることなどはやめたい」と述󠄁べてゐるが、漢語といふ形式上の分類に囚はれ「漢」の字に全󠄁く惑はされてゐるとしか思はれない。更に言葉と文字とを主󠄁人と雇󠄁人との關係に譬へ「今こゝに話がかかつてゐる新雇󠄁人といふのは、そのたちが、至って近󠄁頃風な、氣のきいたもので、極めて進󠄁んだ便利な道󠄁具󠄁をつかふことが出來るから、世間廣く、殆んどどこへも使にいく、從って、表向きのはたらきだけで以て、主󠄁人の顏は十分廣くする。まことに都合がよい」などと吞氣なことを言つてゐるが、現代のやうに勞働組合が强力になつてゐる時に、さう簡單に雇󠄁人を首にすることが出來るかどうか、とにかく愼重に願ひたいものである。


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