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六-二十三 訓令式ローマ字綴方

 昭和五年一月󠄁設置以來、臨時ローマ字調󠄁査會は總會において綴方論爭を展開してきたが、昭和八年五月󠄁十六日の第八囘總會において、鎌󠄁田委員から主󠄁査委員會設置の動議が出され、七月󠄁十一日の第九囘總會において動議が採󠄁擇され、八年十一月󠄁七日の第十囘總會を最後に主󠄁査委員會を構󠄁成󠄁してローマ字綴方の檢討をすることになつた。第一次󠄁の主󠄁査委員會は、委員長に文部次󠄁官である粟屋謙󠄁、委員に圖書局長である芝田徹心、及󠄁び佐伯功介、菊澤季生の日本式論者と神保格、宮崎靜二のヘボン式論者の計六名に、新村出と岡倉由三郞とをオブザーヴァーとして加へ、九年三月󠄁から六月󠄁までに十二囘の會議を開き、七月󠄁十四日、ハ行の「フ」は hu とすること、拗音󠄁は「子音󠄁+Y+母音󠄁」の連結である、日本式綴方は理論的󠄁に一貫せるものと認󠄁む、といふやうな六項目から成󠄁る報吿書を會長に提出してゐる。

 次󠄁いで十年一月󠄁一五日の第十一會總會において、第二次󠄁主󠄁査委員會を構󠄁成󠄁することになり、委員長が三邊長治に變更になつた以外は第一次󠄁と同じ委員により、五月󠄁から七月󠄁までに十囘の會議を開き、「明󠄁治時代においては、標準式が盛󠄁であつたが、日本式は近󠄁年に至つて盛󠄁に赴きつゝあるものと認󠄁める」「總括的󠄁には何れとも容易に判󠄁定し難い」「半󠄁外來語は成󠄁るべく原語によるをよしとする」といふやうな結論に達󠄁してゐる。更に十一月󠄁二十一日の第十二囘總會において、第三次󠄁主󠄁査委員會を構󠄁成󠄁して綜合的󠄁政治的󠄁な討議を行ふことになり、委員長に林博太郞、委員にに大橋八郞、添󠄁田敬一郵、三邊長治、吉野信次󠄁などの各省次󠄁官と、戶澤正保、中目覺、新村、岡倉が選󠄁出された。更に、林、戶澤、中目、新村、岡村の五名で特別委員會を組織して原案の作成󠄁に當つた。

 翌󠄁十一年六月󠄁二十六日、第十四囘總會が文相官邸で開催され、先づ林委員長より第三次󠄁主󠄁査委員會作成󠄁の原案說明󠄁が行はれ、次󠄁いで宮崎・神保より反對意󠄁見、田中館より贊成󠄁意󠄁見、その他數名の委員より意󠄁見述󠄁べられたが、結局多數を以て原案が可決された。しかし、既に指摘した通󠄁り委員の變動が頻繁で、裁決の際の委員の大半󠄁は新參であつた。そのやうなことで正しい結論が得られるとは思はれぬ。

 臨時ローマ字調󠄁査會は同十一年六月󠄁三十日に廢止され、同調󠄁査會案は翌󠄁十二年九月󠄁二十一日內閣訓令第三號を以て公布された。その綴方は、大體において日本式を採󠄁用したもので、日本式と相違󠄂するのは「ダ行」の「ヂ、ヅ、ヂャ、ヂュ、ヂョ」を「zizuzyazyuzyo」と「ザ行」と同一の綴方にした點だけである。とにかく一應これで綴方論爭に終󠄁止符が打たれたわけであるが、統一されたとは名ばかりで、今日に至るまで依然どして二樣三樣の綴方が使用されてゐる。


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