八-十二 『國語の傳統』の出版
四十年十二月󠄁、鹽田良平󠄁・宇野精一編󠄁の『國語の傳統』が出版された。國語の傳統を重んずる十五の識者の論文を收錄してをり、宇野は「國語や國語表記は、本質的󠄁に傳統的󠄁なものである。然るにそれを人爲的󠄁に斷絕しようとする政策が許されてよいものであらうか。文化󠄁財の保護とか、古都も勿論結構󠄁であるが、それなら一體、國語國字をどう考へてゐるか承りたいものである。國語國字は國民の精神、思想のよつて立つ所󠄁の基本である。これが混亂し不安定になることは、とりもなほさず國民精神の動搖に連ることを認󠄁識しなければならない。過󠄁去を捨󠄁て去つて、將來はない」と說き、「常用漢字について」の最後を「要󠄁するに國語や國字のやうな文化󠄁問題を、機械や事務能率󠄁の點から規制しようとするのが根本的󠄁な誤󠄁りであることを强調󠄁したい」と結んでゐる。
澤柳大五郞は「漢字が少なければ直ちにそれだけ文章がやさしくなるとはわたくしは考へません」「外人はみな新假名といふのはどうも覺えにくい、舊假名の方が覺えやすいといふ」「若し日本語が非合理的󠄁であつたとするなら、それはとりも直さず日本人の頭、日本人のものの考へ方が非合理的󠄁であつたからで、それが戰爭に負けて、表記を變へただけで急󠄁に合理的󠄁になるわけはなからうと思ひます」と述󠄁べ、山岸德平󠄁は內閣訓令・吿示につき「全󠄁く、卑怯な卑劣なやり方である」「人權を踏みにじる事である」と批判󠄁してゐる。「當用漢字では、思ふ通󠄁りの文章が書けないとする私は、部會でも總會でも、いつも異物視を受󠄁けなければならなかつた」と言ふ船橋聖󠄁一は「審議會委員として、國語問題を論ずるには、あまりにも敎養󠄁がなく、あまりにも素養󠄁がなく、あまりにも不勉强な連中が入つて居り、それがかなり大きな顏をしえゐるので、驚かされた」と述󠄁懷してゐる。
また古川恆は印刷に携はる者として「國語問題と印刷技術󠄁がどのやうな關連を持ち、そして文字印刷技術󠄁が現在までどのやうな課程󠄁を經て發展し、更に今後どのやうに變化󠄁して行くかを展望󠄂」した後、「長い歷史が育てて來た國語といふものは、その國民にとつて大きな寶ではないだらうか。その國語を使つて行く上に、事務や印刷の能率󠄁が惡かつたとするなら、それはその關係技術󠄁者の責任ではないだらうか。技術󠄁上不便だから國語を變へてくれといふのは本末顚倒の議論ではないだらうか」と述󠄁べてをり、松本洪は「言語の改造󠄁、文字の簡易化󠄁などといふ運󠄁動」は「鹿を逐󠄁ふものは山を見ず」の類であるとし、「ローマ字が本當に易しいものであり、假名字が眞に便利なものなら、商魂に徹した出版業者や雜誌新聞はいち早くローマ字になり、假名になりさうなものだが、今に至つて、ローマ字欄假名文字欄の有る新聞雜誌をさへ見ない」と述󠄁べ、中國語の表音󠄁化󠄁の出來ない所󠄁以を詳しく論じてゐる。