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八-十四 『對話・日本人論』

 昭和四十一年十月󠄁、林房󠄁雄と三島由紀夫の『對話・日本人論』が出版された。その中から言葉ないし日本語に關はる發言のいくつかを左に示す。

三島 大衆社會化󠄁に對抗するには、やはり個對全󠄁體という形でなくて、向こうが量でくるなら質だという考えでなくて、量でくるなら、還󠄁元された別の形の量、つまり縱の量ですね、橫の量でなく縱の量、そういうもので、ある意󠄁味で集合的󠄁なものがだんだんほしくなってくる。その場合に、僕の契機になったのは『ことば』ですね。ことばというものは、結局孤立して存在するものではない。藝術󠄁家が、いかに洗煉してつくったところで、ことばというものは、いちばん傳統的󠄁で、保守的󠄁で、頑固なもので、そうしてそのことばの表現のなかで、僕たちが完全󠄁に孤立しているわけではない。それは、ことばは橫にも廣がるが、同時に縱にも廣がる。だから藝術󠄁家の、ことに文學者の仕事は、ことばを通󠄁じて「縱の量」というものに到達󠄁するのだと。それは林さんのおっしゃった傳統とか、民族という問題とつながってくる。

三島 まあとにかく、讀書百ぺん、意󠄁おのずから通󠄁ず。中學生にもっと古典を讀ませなければいかんな。いやでもおおでも讀ませたほうがいいですね。

三島 ことばはどんなことしたって、インターナショナルではあり得ないですね。……われわれのナショナリズムというのはことばですよ。僕は言靈說ですね。

 ことばは民族の命だからね、これを捨󠄁てるわけにはいかん。

 ことばといえば最近󠄁國語審議會が騷がれてゐるが、これは僕には興味ないのだ。……國語問題を政治的󠄁にゴタゴタ言ってもはじまらない。一人の文學者が模範を示すことだけが國語改革の方法だ。私は新カナなど、少しも氣にしない。比較してみますと、舊カナと新カナは、一ページのなかに差異は三つくらいしかない。そんなことはどうでもいいので、一人の作家がどんな文章を書くかということが、重要󠄁だ。もちろん漢字の制限は、僕は全󠄁然認󠄁めませんよ。しかし、表音󠄁派だとか表意󠄁派だとかには全󠄁く興味を感じない。

 林は作家として「明󠄁瞭、挫折、輕蔑、語彙、洞察」を「明󠄁りょう、ざ折、輕べつ、語い、どう察」と書くことには我慢できないが、「地球、中心」の「地(ち)、中(ちゅう)」が「地面、一日中」となると「じめん、いちにちじゅう」と書かねばならぬことには平󠄁氣なのであらうか。「絆(生綱)、稻妻」を「きずな、いなずま」と書くことに、また「頷く、躓く、跪く、額(づ)く」を「うなずく、つまずく、ひざまずく、ぬかずく」と書くことに、更に「高(たか)、近󠄁(ちか)」が「高うございます」「近󠄁うございます」では「高(たこ)、近󠄁(ちこ)」となることに抵抗を感じないのだらうか。漢字は一見「量」の問題であるやうで實は「質」に多大な影響を與へるが、假名遣󠄁は完全󠄁に國語の「質」の問題である。漢字で書くから痛痒を感じないといふのは、十分に國語に熟達󠄁した者の言であり、これから學ばうとする兒童には、語原を無視した不合理な「現代かなづかい」では正しい言語感覺を身につけることは出來まい。語原の例を一つ擧げれば、「現代かなづかい」では「聲」は「こえ」だが、「聲色」は「こわいろ」と書けといふ。ア行の「え」からワ行の「わ」に轉音󠄁したことになるが、歷史的󠄁假名遣󠄁では「聲」は「こゑ」、「聲色」は「こわいろ」だからワ行の中での轉音󠄁となり、合理的󠄁で解りやすい。語原を知ることは言葉を正しく使ふ上で有用であるだけでなく、非常に樂しいことに違󠄂ひない。一音󠄁・一字の大切さを知り、言葉への關心が高まり、言葉を粗末に扱󠄁はなくなり、古典への興味も深まるのではないか。その語原の說明󠄁は歷史的󠄁假名遣󠄁でなければならないことは斷るまでもない。


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