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八-二十四 池田摩󠄁耶子の『日本語再發見』

 昭和四十八年四月󠄁、池田摩󠄁耶子の『日本語再發見』が出版された。池田は外國人に日本語を敎へた經驗から、外國人のための日本語敎育は言葉の敎育であると同時に、日本文化󠄁の敎育であることを多くの實例を擧げて說明󠄁してをり、いかに言葉と文化󠄁とが深く結びついてゐるかがよく解る。そして、思想が重箱の中身だとすれば、言葉はその重箱であり、文字はそれを包󠄁む風呂敷であるといふやうな考へがいかに淺薄なものであるかが解る。

 池田は「日本人がいろいろの蟲の音󠄁を鳴き分けることができるということは、それが聞き分けることのできる耳を持っていることになるわけで、アメリカ人は非常に感心してしまいます。アメリカ人は蟲というものを問題にしない、それだから蟲の音󠄁を聞き分ける感覺も全󠄁然みがかれてないのです」と言ひ、例へば「お守、神棚󠄁、參拜、破魔󠄁矢」のやうな語を英語に譯してかなり具󠄁體的󠄁に性格に說明󠄁しても「アメリカ人にそれが完全󠄁なかたち――日本人が感じるような感じ方――で理解されるものとは限らないということを、ここで言いたいのです」「日本語を敎えることは、とりもなおさず、日本人の心を敎えることです。……その心を無視して、日本語のみをたんにことばとしてのみ敎えようとしても、外國人にはとうてい理解できないことになります」と述󠄁べてゐる。

 池田は「わざわざ」といふ語を取上げ、國語辭典で「特別に、ことさらに、とくに」といふ意󠄁味を調󠄁べさせてから文を書かせたところ、「きょうはわざわざいい天氣です。」「先日の試驗はわざわざむずかしかったです。」「わざわざお世話になりました。」といふ奇妙な文が出來上つたといふ。池田が言ふやうに「ことばは、一語の獨立した意󠄁味よりも、むしろことばの慣用的󠄁なつながりの中で、はじめて本當の意󠄁味が生きている」のであるから、右の逸話は、當用漢字にないからと言つて別の言葉に言ひ換へることがいかに愚かであるかを示唆してゐる。例へば「杞憂、充塡、姑息、明󠄁瞭」を「取越し苦勞・無用の心配、うめる、間にあはせ・一時しのぎ・小細工、はつきり」に言ひ換へろと言はれても、「砲󠄁彈を充塡する、姑息な手段を用ゐる」と「砲󠄁彈をうめる、間にあはせの手段を用ゐる」では意󠄁味がずれリズムも毀れる。全󠄁く等價な言葉など存在しない。


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