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八-四十 中村保男の『言葉は生きている』

 昭和五十三年七月󠄁に出版された中村保男の『言葉は生きている』は言葉の本質を具󠄁體的󠄁に說いたものだが、中村は第一章で差別語を取上げ「差別というのは、區別されているものに上下の差をつけることである」とし、差別語の排斥が慣用句にまで及󠄁んでゐることを指摘した後で「たいがいの諺や比喩的󠄁な慣用句は長い歷史を通󠄁じて使われて來た貴重な文化󠄁遺󠄁產である。いや、言語そのものがかけがえのない文化󠄁遺󠄁產であり、時代の流れと共にその一部がひとりでに變化󠄁してゆくということはあっても、一部の狂信的󠄁改革論者が勝󠄁手に國語を規制しようとするのは、自然の理にも、社會の本質的󠄁なきまりにも反することなのだ。戰後、內閣訓令吿示という上からの壓力で出て來て新聞社などが一齊に右へならえして盲󠄁從した現代かなづかいや漢字制限も全󠄁くひどい國語破壞だったが、それよりもなお今度の〝差別語〟反對運󠄁動のほうが或る意󠄁味では重大な國語破壞であると私は思う」「〝差別語〟禁止は、言葉によって大きく支えられている文化󠄁に對する〝暴力〟行爲であるのみか、實際的󠄁にも非常に不便を招く」「惡いのは〝差別語〟ではなく、〝區別語〟を差別的󠄁・輕蔑的󠄁に使う人なのである。そういう人をこそ責めるべきであって、言葉そのものには何の責任もないのだ」と論じてゐる。

 また「一つの語には二種類の意󠄁味がある。指示的󠄁意󠄁味と含蓄である」「言葉は生きている、とよく言われるが、語の持つ含蓄というものを考えるとき、特に私は言葉は生き物だなと感じる」と述󠄁べた後「言葉は――特に深い含蓄をもつ言葉は――ものと密接に有機的󠄁に結びついている。地名は土地そのものと殆ど不可分の關係にある。ところが、地名と土地は全󠄁く別物だという似非(えせ)合理的󠄁な發想から、地名變更と稱して町や村などの地名を役所󠄁が勝󠄁手に變更して」ゐるのは「まさに歷史破壞、文化󠄁破壞の行爲であり、これは自然破壞よりも恐󠄁ろしい環境破壞なのだ」と地名變更に强く抗議してゐる。

 昭和五十三年九月󠄁、楠本憲󠄁吉對談集『日本語の愉󠄁しみ』が出版された。本書は俳人の楠本と見坊豪紀、W・A・グロータース、池田彌三郞、杉森久英、岩淵悅太郞、金田一春彥との間で行はれた言葉の搖れ、方言、レトリック、言語感覺、アクセント等についての對談集である。見坊は「言葉が亂れているということを言う人は非常に多いんですが、私は客觀的󠄁に觀察する立場を取っているものですから、亂れというような價値意󠄁識を最初から出すことはしないんです」と國語辭典の編󠄁纂者とは思はれないことを述󠄁べてゐる。ベルギー生れの神父󠄁であるグロータースが「例の國語審議會の新しい發表があった時、私は讀賣新聞のインタビューに答えて、漢字を增やすことが一番大事だ、と言ったんです。それから、振り假名を復活すべきです。戰爭前󠄁の本を見ると、漢字を知らなくても、振り假名によって讀めるようになっていましたね」と述󠄁べてゐるのとは對照的󠄁に、池田は「實に文藝家協會の連中ってのは獨善主󠄁義ですね。考えているのは自分たちのことだけですね。例えば、今度、二千三百まで新漢字を增やさうと言っていますが、今の作家で、二千三百字使わなきゃ小說の書けない人間が何人いるかしら。當用漢字でさえたくさんだというような小說が多いんじゃないですか」と甚だ獨善的󠄁なことを述󠄁べてゐる。なほ、楠本は「當用漢字表」と「現代かなづかい」を「マスコミ以下全󠄁部が採󠄁用した時は、ぼくはものすごいショックを受󠄁けました。俳句を作れませんもの。『()づ』と『()ず』が一緖だったら、意󠄁味が通󠄁らないわけです」と語つてゐる。


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