八-四十五 「常用漢字表」
昭和五十六年十月󠄁「常用漢字表」が內閣訓令・吿示で公布された。昭和二十一年に公布された「當用漢字表」の千八百五十字に「泡󠄁、汁、皿、崎、猫、杉……」等の九十五字を加へ、千九百四十五字となつた。
一、漢字使用の「目安」としたことは一步前󠄁進󠄁のやうに見えるが、その後の新聞、單行本等の表記を見る限り、依然として「表」にこだはつてをり改善されてゐない。
二、今なほ「學年別配當表」も「當用漢字別表」も廢止されてゐないのは極めて遺󠄁憾である。この「表」の拘束から脫け出さなければ、效率󠄁のよい系統的󠄁な漢字學習󠄁は出來ない。
三、鷗外や漱石の作品によく出てくる漢字のうち「僕、甚、尙」は採󠄁用されたが、「誰、其、稍、些、尤、或、於、乍、迄、宛、頃」などは採󠄁用されなかつた。これでは鷗外や漱石を原文で讀むことは出來ない。
四、一般によく使はれる動植物のうち「猫、猿、杉」は採󠄁用されたが、「狐、狼、鯉、鳩、藤󠄁、桐、柿」などは採󠄁用されなかつた。基準がどこにあるのか理解に苦しむ。
五、固有名詞、特に縣名に使はれてゐる漢字のうち「潟、崎、繩」の三字だけを加へ、「茨󠄁、埼、梨、奈、阜、岡、阪、媛󠄁、熊、鹿」の十字は依然として無視してゐる。無定見としか評󠄁しやうがない。
六、漢字の構󠄁成󠄁要󠄁素となつてゐる漢字のうち、なぜか「皿」は採󠄁用されたが、「頁、采󠄁、旁、臼、莫、瓜、爪」などは採󠄁用されなかつた。これらを含む漢字の意󠄁味や讀みをどう說明󠄁するのか。漢字敎育に對する配慮が全󠄁くなされてゐない。
七、日常生活によく使はれる「味噌、醬油、晚餐、挨拶、曖昧」の「噌、醬、餐、挨、拶、曖、昧」などは全󠄁く無視されたが、手紙に「晚さん、あいさつ」などと書いてくる人はゐない。
八、主󠄁として訓だけに使はれる漢字のうち「戾る、据ゑる」は採󠄁用されたが、「詫びる、揃ふ」などは採󠄁用されなかつた。しかし「おわび申し上げます」では樣になるまい。
九、その他「誘拐、洞察、駐󠄁屯、甚大」は漢字で書けることになつたが、「全󠄁貌、涵養󠄁、明󠄁瞭」は「全󠄁體・全󠄁容、養󠄁成󠄁・育成󠄁、はつきり」に言ひ換へろ、「煽動、蒸溜、日蝕」は「扇󠄁動、蒸留、日食」と書け、「冶金、賭博、挫折、輕蔑、語彙」は「ヤ金、と博、ざ折、輕べつ、語い」と書け、「鍋、箸、癌、痔」は「なべ、はし、ガン、じ」と假名で書けといふことらしい。
坂本太郞は常用漢字に反對であつたが、新漢字表の試案に「一應の目安」とあるのを見て「常用漢字への不滿をきっぱり打消󠄁すもので、雙手を擧げて歡迎󠄁する」(『正論』昭和五十二年四月󠄁號)と書き、一般に歡迎󠄁されたやうだが、騙されてはいけない。例へば國語審議會委員の岩淵悅太郞は試案發表當時「目安にしたことは、野放しにつながると考える人もいる。しかし、目安はやはり目安であって、野放しではない」と說明󠄁したとある。「目安」といふ飴をしやぶらされただけではないか。樂觀は許されない。もともといい加減な「當用漢字表」に百字足らずの漢字を加へたところで、所󠄁詮燒石に水であり、よいものが出來るわけがなく、何年もかけてお茶を濁しただけではないか。文部省の國語政策に最も忠實に從つてきた新聞でさへ三千以上の漢字を使つてをり、千九百四十五字で間に合ふわけがない。新聞・雜誌等の用字調󠄁査を參考にしたといふが、漢字制限を實施した後の新聞や雜誌をいくら調󠄁査をしても正確な實態は攫めないだらう。かくなる上は「常用漢字表」など氣にせず、自由に漢字を使ふ風潮󠄀を釀成󠄁する外あるまい。
なほ、字體は常用漢字字體表を變更せずそのまま蹈襲することになったが、これを是認󠄁するわけにはいかない。出版社は若い人達󠄁に讀めるやうにと、舊字體の書物をどんどん新字體に改めてゐるが、とんでもないことである。また許しがたいのは、新聞社などが表外字の字體を勝󠄁手に變へてゐることである。例へば「檜舞臺、老獪」の「檜、獪」の旁を「会」に、「冒󠄁瀆、贖罪」の「瀆、贖」の旁を「売」にしてゐる。これに倣へば「高邁、邁進󠄁」の「邁」は「万」に「⻌」となる筈だが、さうなつてゐない。何とも理窟の通󠄁らぬ話だが、そもそも新字體に理窟などないのだから、矛楯が出てくるのは當然であらう。が、一新聞社にかういふ暴擧が許されていいものかどうか。公の文字を變へる資󠄁格をどこから得たのか。あまりにも不遜ではないか。あまりにも輕薄ではないか。一新聞社の恣意󠄁のままに變へてよろしいとなつたら、何種類もの字體が現れ、混亂するのは必定である。新聞が社會に與へる影響の大きさを考へれば、もつと謙󠄁虛でなければなるまい。
新字體が作られたことによつて、舊字體は不當に壓迫󠄁を受󠄁けてゐるが、決して正字としての權威を失つてはゐない。結局、新字體を廢棄しない限り、國民は二重の負擔に堪へて行かねばならぬ。早急󠄁に新字體は廢棄すべきである。そして、以後字體を妄󠄁りに變革すべきでない。舊字體は畫數が多く難しいと言はれるが、畫數と習󠄁得の難易とはあまり關係がない。また畫數が多く筆寫に手間取ると言はれるが、筆寫には略體を用ゐてもいいし、行書とか草書を用ゐればよいのであり、讀む活字體を筆寫體に一致させようといふ考へが根本的󠄁に間違󠄂つてをり、讀む側にとつてはもとより、書く側にとつても、ワープロの普及󠄁によつて畫數の多寡は全󠄁く問題でなくなつた。
數へ方によつて若干の違󠄂ひはあらうが、常用漢字千九百四十五字中、新字體は五百七十字である。そのうち新聞の字體にそれほどの違󠄂ひがなく、卽刻舊字に復しても讀むのに差支ないと思はれる漢字が四百六十字位ある。隨つて、殘りの百十字の漢字を改めて學習󠄁すれば、全󠄁面的󠄁に舊字體になつても困らないことになる。しかも、百十字の中には「澤、齋、條、國、廣、實、讀、賣、藝、萬、聰、豐、榮、濱、邊、龍󠄁……」等、固有名詞に使はれて、既に見慣れてゐる漢字もある。舊字體に復してもさしたる混亂は起󠄁らないだらう。
なほ、ここで特記しておきたいのは、古家時雄が十八年の歲月󠄁をかけて開發してゐるコンピュータ・ソフト『今昔文字鏡』(電子辭書)の存在である。JIS漢字約󠄁六千八百字の十五倍を超える「單漢字」約󠄁十萬字を收めてをり、正漢字(舊漢字)はもとより新漢字も異漢字も、略字も俗字も思ひのままに使用できる劃期󠄁的󠄁なソフトである。本來なら國立國語硏究所󠄁で開發すべきものだが、それを民間の一個人が成󠄁し遂󠄂げたことに敬意󠄁を表する。