八-四十六 『朝󠄁日新聞の用語の手びき』
戰後の國語改革に忠實であらうとすればどうなるか。大隅秀夫は「文章クリニック」(昭和五十五年『ことば』に連載)で、「たてまえ」は昔「建て前󠄁」と書いたが、「建」と「前󠄁」は好ましくない使ひ方なので「たてまえ」と平󠄁假名で書くべきだと言ふ。また同じ雜誌の「文章添󠄁削󠄁講󠄁座」でも、例へば「いっしょ」を「一緖」、「きげん」を「機嫌󠄁」と書くのは好ましくないから平󠄁假名で書きなさいとか、「肩󠄁書」には「き」を送󠄁つて「肩󠄁書き」と書く方がよいとか、「風貌」の「貌」は表外字だから「風ぼう」と書きなさいとか、全󠄁く下らぬことに神經を使ふやうに指導󠄁してゐる。つまるところ大隅が好ましくないといふのは、文部省方式から外れてゐる書き方に對してであり、戰後の國語改革を絕對とする立場からである。
日本經濟新聞(昭和五十一年十一月󠄁十三日)夕刊一面の記事に「わが國最大の洗劑・石けん會社花󠄁王石鹼」とある。前󠄁者は一般名詞だから「石けん」で、後者は固有名詞だから「石鹼」だといふわけである。筋を通󠄁せばかうならざるを得ないが、これが日本語のあるべき理想的󠄁な表記だと本氣で考へてゐるわけではあるまい。
樺島忠夫は『日本語はどう變わるか』(昭和五十六年一月󠄁刊)で「日本人の態度を、語彙についてもう少し具󠄁體的󠄁に言えば、これから先も外來語はこだわりなく取り入れられるだろう。そして、外來語を制限したり整理したりすることなく、和語・漢語・外來語を上手に利用するだろう。文字に關して、漢字、平󠄁假名、片假名を使い分けて表現力を豐かにしてきた」と他人事のやうに述󠄁べてゐるが、樂天的󠄁に過󠄁ぎるのではないか。
昭和五十七年二月󠄁に發行された『朝󠄁日新聞の用語の手びき』(第十一刷)の「表記の基準」には、常用漢字表と同音󠄁訓表で書き表せない言葉は「別の言葉に言い換えるか、假名書きにする」とあり、拉致を「ら致」、冤罪を「えん罪」とするやうな一部を假名書きにすることは極力避󠄁けるとある。が、紙面は必ずしもさうなつてゐない。例へば小見出しに「厚木の拉致」とあるのに本文には「石井さんをら致し……」「ら致の動機……」とあり、他にも「胸をはってのがい旋」「貧打にコーチ悲そう」「金ねん出へ知惠絞り」「命がけのそ上だ」「べっ視」「し烈」「う囘」のやうに一部假名書きをしばしば見掛ける。「がいせん、ねんしゅつ、うかい」といふ言葉を使ふ以上「凱旋、捻出、迂囘」と書く方が解り易く、親切ではないか。
また「文章の書き方」として「文語調󠄁」は避󠄁けるとあり、「深刻化󠄁する」は「深まる」に、「新たに」は「新しく」と書くことを勸めてゐる。しかし、例へば「問題が深刻化󠄁する」を「問題が深まる」としたのでは意󠄁味が違󠄂つてしまふ。「新たに」にしても「新しく」とは言ひにくいこともあり、殊更「新たに」を避󠄁ける理由が解らない。現に朝󠄁日の紙面に「新な暫定政權」「氣持を新たにしている」とあり、徹底するのは無理であり、その必要󠄁もないのではないか。以下朝󠄁日の『手びき』にある用字用語の中から問題點をいくつか擧げてみよう。
▽「孔」は「穴」と書く。……本來「穴」は底のあるあな、「孔」は打ち拔けたあなであり、眼孔、氣孔、鼻󠄁孔といふ語がある以上、「鼻󠄁の穴」とは書きにくい。使ひ分けるべきである。
▽「一揆」は「暴動」とする。……一揆には歷史的󠄁背景があり、土一揆、百姓一揆を「土暴動、百姓暴動」と書けといふのだらうか。
▽「改竄」は「變造󠄁、改變」とする。……朝󠄁日自ら「公開日誌を改ざん」のやうに頻繁に「改ざん」と書いてゐることからも解るやうに、改竄は好ましくない下心を持つて改めることである。單なる「改變」ではない。
▽「傍(岡)目八目」は「おか目八目」と書く。……四字熟語の一部を假名書きにされると讀みにくく解りにくい。
▽「鑑」は「かがみ」と書く。……「鏡」は顏や姿󠄁を映す道󠄁具󠄁であり、鑑は手本、規範を意󠄁味する。「かがみ」では意󠄁味がはつきりしない。
▽「沙汰」は「便り、しらせ」にする。……「沙汰の限り、沙汰止み、御無沙汰、裁判󠄁沙汰、表沙汰」などの「沙汰」を「便り、知らせ」だどに言ひ換へられるのか。「便りの限り、裁判󠄁便り、表知らせ……」とでも書かせるつもりか。
文部省の決めた表記法に盲󠄁從してゐては讀み易い、解り易い記事が書けるのか。いい加減で盲󠄁從するのを止めたらどうか。