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八-四十七 杉本つとむ監修の『國語辭典を讀む』

 昭和五十七年三月󠄁、杉本つとむ監修の『國語辭典を讀む』が出版された。數人の學生のレポートを一册に纏めたものだが、興味深い指摘が隨所󠄁に見られる。例へば「ふらふら」と「ぶらぶら」は出てゐるが、「ぷらぷら」は出てゐないとか、「のそのそ」と「のろのろ」はどちらも動きが遲いことを表すが、その用法の違󠄂ひ(「のそのそ」は生物にしか使へないが、「のろのろ」は無生物にも用ゐられる。例へば「のろのろ運󠄁轉とは言へても」「のそのそ運󠄁轉」とは言へない)について說明󠄁がないとか、或いは「しげしげ」と「まじまじ」は意󠄁味が似てゐるが、「辭書の記述󠄁から、類似點も相違󠄂點も讀み取ることはできなかった」とか、國語辭典の缺陷を銳く衝いてゐる。

 當然のことながら、三省堂の『新明󠄁解國語辭典』の評󠄁價は低く、多くの不滿が述󠄁べられてゐる。例へば「見出し語の選󠄁擇基準が不明󠄁瞭」「流行語・新造󠄁語の無批判󠄁な多用が語釋の文中に見られる」「誤󠄁用であっても世間で使われているものをできるだけ認󠄁めようとし、規範性はあまり意󠄁に介していないことがわかる」「編󠄁者の主󠄁觀的󠄁な見方・價値觀が、また偏󠄁ったことばの把握や狹い體驗が、記述󠄁說明󠄁の上にあらわれてしまっている」と言ひ、整理の仕方が「獨自的󠄁というより獨善的󠄁」であり、「あまりにナマ(未成󠄁熟)な用例と思われるものもあって信賴しにくい」と手嚴しい。同じ系列にある、辭典の編󠄁者の言葉を借りれば「弟分」に當る『三省堂國語辭典』(昭和四十九年一月󠄁刊、第二版)にも右の批判󠄁がそのまま當嵌まる。

 その不備を擧げれば、例へば「みくだりはん」の項には、「三行半󠄁」といふ正しい表記が示されてゐるのに、「くだり」の項には「三件り半󠄁」とある。「とんでもない」の項に「とんでもございません」は「とんでもないことでございます」の新しい言ひ方といふ註記があり、「はっそく(發足)」の項に「ほっそく」の新しい形といふ註記があるが、新しいと言ふより「とんでもございません」は誤󠄁り、「はっそく」は一般的󠄁でないと註記すべきであらう。更に一般に誤󠄁りとされる「輕卒、輕擧盲󠄁動、心棒、單的󠄁、素適󠄁、巾、戰斗」などを見出しに出してゐるから、時々見られる誤󠄁字誤󠄁用の類をすべてに認󠄁める方針なのかと思へば、出納󠄁を「しゅつのう」、漸次󠄁を「ざんじ」と讀むのは誤󠄁り、御他聞を「御多聞」、固有を「個有」と書くのは誤󠄁りとしてをり、甚だ無定見である。

 どうしてさうなるのか、同辭典の主󠄁幹である見坊豪紀は『辭書をつくる』(昭和五十一年十一月󠄁刊)の中で「私にとって辭書とは、かがみである」「上品な形も上品でない形も、正しい意󠄁味も正しくない意󠄁味も、それが客觀的󠄁にはっきり存在すると認󠄁められたとき、どちらも公平󠄁な取り扱󠄁いを受󠄁ける。正しくない方を切り捨󠄁てることによって編󠄁者の見識を示すことはしない」と述󠄁べてゐる。が、「編󠄁者の見識」を示すことなく辭典が作れるのか。うつかりとか、勘違󠄂ひとか、無知とかによる誤󠄁字・誤󠄁用が二、三囘新聞や雜誌に出てゐるからといつて、「客觀的󠄁にはっきり存在する」として「見識」を示さず、どんどん辭典に載せられては堪らない。辭典が手本となる「鑑」ではなく、單に形を映す「鏡」では安心して使へまい。それでは辭典の規範性は失はれる。新語を一つ辭典に加へるにも愼重でなければならないのに、一出版社の一編󠄁者の恣意󠄁のままに扱󠄁はれては困る。ただでさへ言葉は崩󠄁れがちであり、誤󠄁用は擴散しがちである。それに辛うじて齒止めをかけてゐるのが辭典ではないか。それなのに、辭典が言葉の亂れや誤󠄁用をすぐ認󠄁めてしまつては、日本語の低俗化󠄁と誤󠄁用の普及󠄁に力を貸すことにならう。


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