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八-五十七 野村雅󠄂昭の『漢字の未來』

 昭和六十三年七月󠄁、野村雅󠄂昭の『漢字の未來』が出版された。野村は、戰後の國語改革は占領軍の壓力や表音󠄁主󠄁義者の暗󠄁躍󠄁によるものではなく、「漢字制限やカナヅカイ改良運󠄁動のつみかさねがあった」からであり、「決して、どさくさにまぎれて、でっちあげられたものではない」と改革を肯定し、「合理化󠄁された日本語は、言語生活の能率󠄁を向上させただけでなく、多數の國民のヨミカキ能力の水準をたかめた」と評󠄁價し、「『常用漢字表』では、漢字制限ということから五十步も百步も後退󠄁している」「もはや、すべての國民がおなじ文字を所󠄁有し、なるべくおなじことばで意󠄁志を交換するという理想は、うしなわれてしまった」と、漢字が以前󠄁に增して活用されることを不滿としてゐる。そして「和語から漢字をのぞくのは、熱帶地方の住󠄁民に、モーニングの着用を禁ずるようなものである。もともと、和語に漢字というころも(﹅﹅﹅)は必要󠄁でなかったからである」「文字に偏󠄁執する一部の文筆家をのぞいては、同訓異字はやっかいな存在だった」と述󠄁べ、本書でも和語の假名書きを實行してゐるが、讀み易く解り易い文章とは言ひがたい。

 同じ「きく」でも「聞く」「聽く」「利く」「訊く」「效く」と書き「きく」の中身を分けることで意󠄁味する內容がより明󠄁確になる。「炭」と「墨」、「鑑」と「鏡」、「渴く」と「乾く」、「笠」と「傘」にしても同じことである。厄介だからと言つて、親指も小指も「指」ですまし、松蟲も鈴蟲も芋蟲も「蟲」ですますのは、言葉の本來の機能を減殺するものである。野村は「漢字カナまじり文だけが最高の表記法だと信じこむ夜郞自大的󠄁な過󠄁信から、一日も早くぬけだすべきである」と言ふが、半󠄁世紀前󠄁のカナモジ論者かローマ字論者の亡󠄁靈を見る思ひがする。また、改革反對派の「傳統的󠄁な言語形式をそのままにのこそうとすることは、やはり言語に人爲をくわえることにほかならない」と理不盡なことを言つてゐるが、人爲的󠄁改革に反對するのは、國が內閣訓令・吿示の如き法的󠄁措置によつて行つてはならないといふことであつて、個人がより正しい、より美しい表現を求めて努力することは人爲とは言はぬのである。傳統尊󠄁重派にしてもカナモジ論者が假名だけで文章を書くことを內閣訓令・吿示で禁じたり、制限したりしたら、表現の自由を侵󠄁すものとして反對するだらう。言語文字は現在生きてゐる人間の間で通󠄁用すればよいといふものではなく、今日まで生きた先人達󠄁、これから生れてくる未來の人達󠄁との間でも通󠄁ずるものでなければならない。少くともさうあることが望󠄂ましいと考へるから、可能な限り傳統を護らうとするのである。現代に生きる者の賢しらで國語を改革するのは僭越である。越權行爲である。

 野村は「漢字のなくなるひは、かならず、おとずれる」といふ强迫󠄁觀念から、もつと漢字を制限しよう、初等敎育ではローマ字を本則としようなどと主󠄁張し、國際共通󠄁語や國際共通󠄁文字を提唱してゐるが、假にそれが可能であつても、さうすることが望󠄂ましいとは言へない。英語は英語、フランス語はフランス語、日本語は日本語としての特性を保ちつつ、共に豐かになることが望󠄂ましく、世界が一言語一文字によつて統一されては味氣ないのではないか。右のやうな妄󠄁想を抱󠄁き、漢字を排除しようとする野村は國立國語硏究所󠄁の言語敎育硏究部長だとか。野元菊雄の「簡約󠄁日本語」と言ひ、國費の無駄遣󠄁ひと言ふより、國費が日本語破壞に使はれてゐると言ふべきであらう。


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