九-五 『漢字興國論』と『日本語よどこへ行く』
平󠄁成󠄁四年五月󠄁、石井勳の『漢字興國論』が出版された。石井は「漢字は厄介なもの」とされたのは、漢字を學習󠄁する「時期󠄁」と「方法」が間違󠄂つてゐたからだと考へ、世間一般が漢字で表記する言葉は小學校一年の最初から漢字で書くことを原則とする、いはゆる「石井方式」の普及󠄁に努め、各所󠄁に實踐する小學校が出て來たが、遺󠄁憾ながら、未だに漢字は厄介ものといふ偏󠄁見に捉はれてゐる敎育關係者は決して少くない。石井は第三章「日本人の多くが忌嫌󠄁ひ、外國人が高く評󠄁價する漢字」において「アメリカのフィラデルフィアに在る、グレン・ドーマン博士の人間能力開發協會の幼兒敎室では、既に十年も前󠄁から、碧い眼のアメリカの幼兒たちが、日本の高校生でも讀めないやうな漢字を嬉々として學んで居り、漢字を修得してゐます」「ドーマン博士の協會で、漢字敎育が實踐されるやうになつたのは、『幼兒期󠄁の漢字敎育は幼兒の智能を著しく高める』といふ私の發表を深く理解され、それを堅く信じて下さつたからだと思ひます」と述󠄁べてゐる。
同四年六月󠄁に出版された萩野貞樹の『名文と惡文』は名文を書く祕訣を說いたものだが、萩野は「あとがき」に歷史的󠄁假名遣󠄁で書いたのは「日本語の表記法としてこれが正統だから」であり、「二千年にわたつて日本人が自分達󠄁の表記法を懸命に練り上げてきて、そしてやうやく明󠄁治になつて安定を得た正書法」だからであり、「權力が『人民』に押しつけたものなどでは全󠄁くない。日本人の全󠄁てが、百世代にも餘る長い時間をかけて、努力して獲得したもの」で「もし私達󠄁が、先人の苦鬪に對して少しでも謙󠄁虛な氣持になれるなら、たいてい歷史的󠄁假名遣󠄁は棄てることができないはずである。これを棄てるのでは、すでにこの地上にはない億兆の同胞󠄁に對してつつしみを缺くことになるであらう」と書いてゐる。
同四年八月󠄁に出版された土屋道󠄁雄の『日本語よどこへ行く』は、土屋が二十數年の間に數種の雜誌に書いたもので、國語改革を始め差別用語、國語辭典、日本語と國際化󠄁、新人類作家の日本語、森鷗外の國語觀、朝󠄁日新聞の用語課長との論爭等が收められてゐる。土屋は「あとがき」で「私は樣々な角度から日本語について書いてきた。その都度テーマは變つても、私の願ひは唯一つ、あるがままの美しい日本語、正しい日本語をそのまま次󠄁の世代に傳へたいといふことであつた。どうかすると崩󠄁れかねない日本語の正しさ、美しさを何としても守りたかつた。日本人の心を育み、日本文化󠄁の中樞をなす日本語を醜い姿󠄁にしたくなかつた。そんな私の目に、昨今の日本語は病んでゐるやうに見える。悲鳴をあげてゐるやうに思はれる。昭和二十年の敗戰直後の國語改革がもたらした弊󠄁害󠄂はあまりにも大きく、未だにその後遺󠄁症に惱まされてゐる。日本語輕視の風潮󠄀は依然として續いてをり、ジャーナリズムは日本語を私物化󠄁し、故意󠄁に日本語を歪めて憚らない。學者は日本語の亂れを單なる變化󠄁と見做し、誤󠄁用を正さうとしない。規範となるべき國語辭典は、無知による誤󠄁用、不用意󠄁による誤󠄁用を先を爭ふやうに採󠄁り入れて得々としてゐる。確かに、言葉は變化󠄁する。が、正しい日本語敎育が行はれ、ジャーナリズムが正しい日本語を使ふやうに心懸け、學者が誤󠄁用を正す努力を怠らなければ、無意󠄁味な變化󠄁を防ぐことは左程󠄁むづかしいことではない。勿論、どんなに努力してもなほ變化󠄁するものは致し方ないが、變化󠄁にも日本語を豐かにする好ましい變化󠄁と、日本語を歪め破壞する有害󠄂な變化󠄁とがある。兩者をしつかり見極めて、有害󠄂な變化󠄁はできるだけ小さくするやう努めなければならない」と述󠄁べてゐる。
平󠄁成󠄁四年十月󠄁から日本漢字能力檢定協會により文部省認󠄁定の漢字檢定試驗が實施され、每年百萬人を超える人が受󠄁驗してゐる。七級󠄁から一級󠄁までの九段階に分け、七級󠄁は小學校四年までの學習󠄁漢字六百四十字、一級󠄁は常用漢字を含む約󠄁六千字を對象としてゐる。高校が單位認󠄁定制度を採󠄁用したり、大學入試における檢定合格者の優遇󠄁制度が採󠄁られたり、漢字能力が重視されつつあることは喜ばしいことである。