一-七 本居宣長と森島中良
また眞淵の影響を受󠄁け、儒佛を排して古道󠄁に歸るべきことを說いた本居宣長は、『漢字三音󠄁考』(天明󠄁五年、一七八五年)を著はし、日本の國語音󠄁と漢・吳・唐󠄁の三音󠄁について論じ、日本の古言が純粹正雅󠄂の五十音󠄁からなるのに對し、中國印度の音󠄁は鳥獸萬物の音󠄁に似て不正であるとした。宣長は漢文に對して『玉勝󠄁間』十四の卷において次󠄁のやうに述󠄁べてゐる。
皇國の言を、古書どもに、漢文ざまにかけるは、假字といふものなくして、せむかたなく止事を得ざる故なり、今はかな といふ物ありて、自由にかゝるゝに、それをすてゝ、不自自なる漢文をもて、かゝむとするは、 いかなるひがこゝろえぞや、
これは假名國字論などとは關係のないものであるが、當時の漢文偏󠄁重の風潮󠄀に對する忠言として心に止めておくべきものであらう。
更に明󠄁和二年(一七六五年)に出版された後藤󠄁梨春の『紅毛談』(オランダバナシ)には其國の文字、梵字などに似て廿四字あり。此文字を二つ宛綴あはせ、四十八字とのごとくにもなる。是日本のいろはのごとし。これにて萬事相すむよし
といふ文字についての說明󠄁がある。
天明󠄁七年(一七八七年)に『紅毛雜話』六卷を出版した森島中良は、その三卷で
紅毛人萬國の風土を記したる書に、支那󠄁の文字を笑て曰、唐󠄁土にては、物に附、事に依て字を製す。一字一義のものあり。或は一字を十言二十言にも用ゆる物あり。その數萬を以て數ふべし。故に國人、夜を以て日に繼、寢食を忘󠄁れて勤學すれども、生涯己が國字を覺盡し、その義を通󠄁曉する事能はず。去によりて、己が國にて記したる書籍を容易讀得者少し。笑ふべき甚だしきなり。
と、オランダの書物を紹介し、次󠄁いで西洋の文字について述󠄁べた後、結びとして次󠄁のやうに述󠄁べてゐる。
中良按るに、皇朝󠄁の古へば簡易にして文字をさへ用ゐず。夫より世降りて、五十言の目標に、唐󠄁土の字を假用る事となり、いよいよ末の世に至りては、唐󠄁土の字音󠄁字義を用る事と成󠄁りてより、事少なく安らけき吾國風を捨󠄁て、事多く煩はしき唐󠄁土風を用ゐるは何事ぞや。紅夷といやしむる蕃夷すら、心有者は宜なはぬね唐󠄁土の字學なれ。
なるほど數萬の漢字を全󠄁部記憶せねばならぬとしたら、夜を以て日に繼ぎ、寢食を忘󠄁れて努力しても、とても覺え盡くすことは出來ないであらうが、二、三千字も記憶すれば十分用は足りるのである。