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一-十 司馬江漢と佐藤󠄁信淵

 洋畫家司馬江漢は『春波樓筆記』(文化󠄁八年、一八一一年)の中で漢字漢文について次󠄁のやうに述󠄁べてゐる。

文字も皆唐󠄁の字なり。聖󠄁賢も皆唐󠄁の人なり。然らば唐󠄁の書籍を讀み得ざれば、理非分明󠄁ならず。 其意󠄁を得んとするうち、文章のおもしろきに心移り、色々と書き胎す事も皆唐󠄁の文章にする者なり。 是は心得違󠄂ひなり。人によりて書くなど、一向にきらひ、唐󠄁の文章を知らざる者に、還󠄁りて聖󠄁賢の志ある者あり。 故に和語にて書くべし。兩道󠄁に益あり,大槻玄澤と云ふ人は、仙臺侯の外科にて、蘭學に名あり。 頃日、タバコの起󠄁原の書を引きて、皆漢文なり。タバコは多くは愚人卑賤の好む者にて、故に此書は世の嘲󠄁弄ものとなりぬ。 又、京東森の隱士無外子圓通󠄁と云ふ出家、佛國曆象編󠄁と云ふ書を著せり。是は須彌山を是とし、地球を非としたる事にて、 萬書を引きて、漢文なりき、文盲󠄁なる者をゝどす謀事なり。又文學者にも理に疎き者まゝあり。

 一種の國家社會主󠄁義を唱へた經濟學者佐藤󠄁信淵は『蘭學大道󠄁編󠄁』(文化󠄁八年、一八一一年頃と推定される) において、次󠄁のやうに述󠄁べてゐる。

人生レテ三歲ニシテ父󠄁母ト言。長スルニ從テ自然ニ萬言ニ通󠄁ジ且テ「テン・チ」ト云音󠄁ヲ學ビ得タルモノナシ。 天地と云文字不學シテ知ル者ナシ。和漢トモニ文字ノ國ニシテ文字不學バ書籍ハ不讀。經典ト雖其理ニ通󠄁ズル能ハズ。 然ルニ、此日本ハ元來訓ノ邦ニシテ、恆ニ語スル所󠄁ノ雜話皆訓ニシテ其文字ニ當ラザル事多シ。西域ノ諸州文字ナシ、 唯訓語ヲ爲テ適󠄁用ス。故ニ先ヅ書ヲ素讀シ、而後ニ師ニ其意󠄁ヲ聞テ理ニ通󠄁ゼントスルハ迂遠󠄁ナラズヤ。 彼國音󠄁ヲ以テ通󠄁ズルユへニ、天理地理ニ通󠄁曉セント欲セバ、其書ヲ視ルコト日本ノカナヲ讀ムガ如シ。 嘗テ雅󠄂言俗語ノ差別ナシ。故ニ師ナクシテ天地ノ理ニモ通󠄁ズル也。其簡辨カクノ如シ。


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