一-十一 川崎重恭の『鳥おどし』
また川崎重恭は「神代文字が立派なら、それで書いたらよい」といふ論に對して、『鳥おどし』(天保九年、一八三八年頃と推定される)を書いて次󠄁の如く反論してゐる。
今の世漢字を日用にあて。簡便なるに似たれども。はじめより漢字を用ひずして。神代字のみ用ひ馴れたらんには。固より四十七音󠄁の假名なれば。たより宜くて。かの天竺はさらなり。其より西なる國々の。今もなほその國字のみ用ひて。煩はしとおもひたらぬ如く。いかでかその蜿?なるを嫌󠄁ふべき。天津そらをも翔󠄁り給ふ太子の。西淨なる人どもの。漢人は世のかぎり。其國もじの義をしり盡すこと能はずと。かの國もじの煩はしきを笑ふ事をば知り給はざるにや。己はたちたるまゝにこゝに在れども。能くきゝ知れるものをや。然るに
汝もすでに漢字を用ひて。文章をなすにあらずやと云はれしは。殊にをかし。そは漢字すでに久しく世に用ひなれてある故に。書は通󠄁用をもて專用とすれば。篤胤も世のなみに。漢もじを用ふるより外なきにあらずや。
今日でも、假名・ローマ字論者に、「それほど便利なら、何故假名文字やローマ字で書かぬのか」と質問すると、これと同じやうな答へ方をするに違󠄂ひない。