次󠄁頁前󠄁頁目次󠄁全󠄁體目次󠄁ホームページ

二-十五 黑川眞賴・渡邊修次󠄁郞・海內果の主󠄁張

 明󠄁治八年六月󠄁、黑川眞賴は『洋々社談』に「言語文字改革ノ說ノ辨」を發表し、「言語ハ天地ヲ鎔造󠄁セシ高皇產靈神、神皇產靈神ノ作リテ與ヘシモノナレバ人ノ所󠄁爲ニテハ更フル事能ハズ」と、森有禮ノ英語採󠄁用論に反對した。

 同年八月󠄁二十九日,渡邊修次󠄁郞は「日本文を制定する方法の大意󠄁」を郵便報知新聞に發表すると共に、同年九月󠄁、同趣旨の建議文を文部省に提出した。渡邊は「我國敎育普及󠄁󠄁せず文學衰微の原因は文字の六かしく混雜して甚だ學び難きにあり」といふ書出しで、「日本文を制定するには言語文章を同一にせざるへからず」と述󠄁べ、よく通󠄁用する東京言葉を本として、先づ文法書辭書を編󠄁輯せよと主󠄁張してゐる。更に「日本文制定ノ例」として「ヨこはま の ヵいがんどほり へ とりたてた ヤそーけうくわいの」といふやうな、地名人名の初めに片假名を用ゐた平󠄁假名文の分ち書きを示してゐる。

 また翌󠄁九年六月󠄁.海內果は東京日日新聞の社說欄に「文字論」を發表し、「漢字ノ奴隸タルヲ甘ジ終󠄁身漢字ノ爲メニ光陰ヲ浪費シ精神ヲ苦役スル如キノ所󠄁爲ハ人間社會ニ於テハ最モ醜行ナルヲ以テ忌ミ嫌󠄁フベキコト」であると述󠄁べてゐるが、にも拘らず

*今日我邦ニ於テ最モ效用アルノ文章ヲ撰ビテ之ヲ使用シ文章ヲシテ自由ノ思想ヲ發露スルノ役タラシムルニアルナリ 而シテ其ノ效用ノ今日ニ適󠄁切ナル者ヲ選󠄁ハヾ夫レ漢字ニアラン歟 夫ノ漢字ナルモノハ我邦ニ行ハルヽヤ久シ 鄕校生徒が時ニ習󠄁フ所󠄁モ商店丁稚ノ日ニ記スル所󠄁モ漢字ナラザルハナシ 如何ゾ之ヲ使用セザル可ケンヤ

と、漢字を活用すべきであると主󠄁張してゐる。

 言語文字は、過󠄁去から現在へ、そして未來へ、連續して進󠄁展せねばならぬものであり、そこに不連續な部分があつてはならないのである。不自由を感ずるやうな人爲的󠄁な制限を加へることは、言語文字をそこで不連續にすることであり、國語そのもの、文字そのものの健全󠄁な發育を阻害󠄂することになるのである。

 また同九年八月󠄁に、中島雄が『同人文藝雜誌』に「文字改革論ノ未ダ卒カニ行フベカラザルヲ論ズ」を、十一月󠄁に、和田文が同じ雜誌に「書語口語同ジキヲ欲スルノ說」を發表してゐる。 明󠄁治十年千葉師範學校長に任ぜられた那󠄁珂通󠄁世は、翌󠄁十一年、國語の學習󠄁を平󠄁易にする目的󠄁から、動詞の語尾以外はすべて發音󠄁式假名遣󠄁を以て敎授󠄁させると共に、讀本以外の敎科書を假名文にし、漢字廢止の氣運󠄁を高めようとした。その當時の那󠄁珂の門下に、後に假名文字論者として知られた、石川倉次󠄁、小西信八、三宅米吉、辻󠄁敬之などがゐた。


次󠄁頁前󠄁頁目次󠄁全󠄁體目次󠄁ホームページ