三-二十八 元良勇次󠄁郞の橫讀縱讀の實驗
明󠄁治二十八年六月󠄁、元良勇次󠄁郞が『東洋學術󠄁雜誌』に發表した「橫讀縱讀の利害󠄂について」は、以下に說明󠄁する實驗を根據に、心理學上より橫讀みの優れてゐることを論じたもので、その後の橫讀み論者が度々利用してゐるものであるが、實驗方法そのものに不備がある上に、立論に難點があるため、全󠄁く信用することの出來ないものである。
元良は橫讀みの利點の一つとして「人眼の橫に長き」ことを擧げてゐるが、書物のやうな狹い範圍のものを見る場合には、眼の形狀など問題ではない。大刀で鉛󠄁筆を削󠄁るなどは却つて不便である。眼の視界が狹く、書物の一部分しか見ることが出來ず、しかもその視界が橫に長いといふのであれば、橫讀みの方が有利であらうが、書物より遙かに廣い視界を有してゐるのであるから、眼の形狀とか視界の形狀が多少どちらかに長いといふだけでは、橫讀み縱讀みの優劣を論ずることは出來ない。次󠄁に「網󠄁膜の視力は縱橫何れに最も發達󠄁」してゐるかの判󠄁定に利用した實驗器具󠄁とその方法について說明󠄁すると、幅八分長さ三寸の窓に、三個の文字又は繪を示し、半󠄁秒間にどの位知覺し得るかを、窓を鉛󠄁直にした場合と水平󠄁にした場合とで比較したわけである。最初文字で行つたところ、縱百に對し橫八十九で、縱讀みに有利な結果が出たのであるが、文字では既に縱讀みの習󠄁慣があるから信用できないとして、次󠄁には繪を用ゐて行つてゐる。その結果はやや橫讀みに有利になつてゐるが半󠄁秒間に知覺し得る繪の數に一割󠄀にも充たぬ差があるからといつて、網󠄁膜の視力についての結論を引出すのは早計である。繪を使用した實驗から、右の結果より遙かに橫讀みに有利な結果が得られたとしても、それをそのまま文字に適󠄁用することは間違󠄂ひである。例へば、ローマ字の縱橫の優劣を比較する時に、ローマ字とは無緣の繪を實驗に使用し、その結果が縱讀みに有利であるからといつて、ローマ字は縱書きが有利であると主󠄁張したらどうであらう。實に滑稽なことであるが、右の實驗はその危險を含んでゐる。實驗には、比較しようとする文字を用ゐる以外に良策はなく、それも文章の判󠄁讀による比較でなければ意󠄁味がないのである。
次󠄁に元良は眼の筋肉の疲勞度から橫讀みが有利であると結論を下してゐるが、眼の筋肉がどうあらうと、ローマ字のやうに縱書きの全󠄁く不可能なものもあれば、漢字のやうに縱橫の優劣を判󠄁定し難いものもあり、結局縱橫の決定的󠄁要󠄁因は文字そのものにあると言はねばならぬ。次󠄁いで眼球の運󠄁動の難易を調󠄁べるために、幅八分長さ八寸位の窓の兩端に、半󠄁秒に一字の割󠄀合で交互に片假名を示し、その讀み得た字數を、窓を鉛󠄁直にした場合と水平󠄁にした場合との比較を行つてゐるが、このやうな粗末な實驗から結論を引出すのは無理である。
以上のやうに、眼を中心にして考究を進󠄁めてゐるが、その結果に決定的󠄁な差異が現はれる筈もなく、「橫讀の方縱讀に比して少しく易きものなるを見る」といふ甚だ賴りない結論に達󠄁してゐるが、元良は「少しく易き」ことを理由に「世の讀者諸君は行はれ得べき橫書文字を發明󠄁して速󠄁かに橫書橫讀の法の我國に行はれんこと敎育社會のために餘の切に希望󠄂する所󠄁なり」などと無茶なことを述󠄁べてゐる。眼の構󠄁造󠄁がそれほど縱讀みに不便なものであるならば、現行のやうな縱書きの文章など發達󠄁しなかつたであらうから、今になつて眼の構󠄁造󠄁を調󠄁査してみても現實を動かすほどの結論が得られる筈もないのである。