五-二十一 加茂の『國字問題十講󠄁』
大正十四年十一月󠄁に刊行された、加茂正一の『國字問題十講󠄁』は、國字問題、文字、國字・漢字、假名、國字改良論、漢字節用論、假名國宇論、新字說、ローマ字國字論の十講󠄁から成󠄁る國字問題全󠄁般に亙る解說書である。加茂は「カキクケコやマミムメモなどは、一宇で以て、一音󠄁節(子音󠄁と母音󠄁とから成󠄁る音󠄁の一くさり)を示してゐるもので、音󠄁文字としては、更に母音󠄁と子音󠄁に分解の出來る程󠄁度まで進󠄁化󠄁すべきであります」と述󠄁べ、ローマ字を最も進󠄁化󠄁した文字と見てゐるわけであるが、何故假名を更に母音󠄁と子音󠄁とに分解せねばならぬのか、單に分解が可能であるから分解すべきだといふのでは困る。それについて
*音󠄁を母子兩音󠄁に分解して硏究せねばならない事は、各種の物質を元素から硏究するのと同じ事です。水がH2Oである事から硏究するのが、現代の科學の要󠄁求する所󠄁です。水をたヾ水として知つてをればよいといふのは、H2Oの何ものかを知らない仲間の唱へる事で、然も「カ」を ka と書いて行く爲めに、非常に多くの勞力や腦力などが要󠄁るのならいざ知らず、今の文明󠄁諸國では、子供から皆この書き方をしてゐるのです。
と述󠄁べてゐるが、音󠄁をいかに分解しようとも、到底分解できるものではないし、假に分解できたとしても、それに一つ一つ文字をあてがつて表記する必要󠄁はないのであつて、敢てそれを行つてみても徒らに繁雜になるばかりで、入間の耳で聽き分けることなど出來るものではない。ただ音󠄁を忠實に傳達󠄁するといふことでなく、意󠄁味を正しく傳達󠄁するといふことに注󠄁目すべきものである。理想としては、それぞれの言葉を「意󠄁味素」に分解して、その「意󠄁味素」に一文字づつあてがふべきなのである。卽ち、水素はH、酸素はO、鹽素はCl、硫黃はSといふやうに、元素(意󠄁味素)にそれぞれ記號をあてがふことにより、H2O, HCl, H2SO4などの結合狀態を一目で知ることも出來れば、それらの相互關係をも理解できるわけである。このH、O、Cl、Sなどは意󠄁字としての性格を有し、漢字の長所󠄁と相通󠄁ずるものがある。例へば、水牛、水洗、水球、水量などの「水」は、H2O, HClなどの「H」に相當し、水牛の「牛」が、牛乳󠄁、牛肉、牛馬となるのは、HClの「Cl」が、NaCl, AgCl となるのに相當するものである。漢字はこのやうな得難い長所󠄁を有するものであるが、それを破壞するやうな愚を敢て行ふべきではない。
また加茂は附篇の「似而非ローマ字論者に敎ふ」において、「あなたが、已に假名をあきたりなくお考へになつて居られるのに、その假名よりも尙劣つた、こんな劃一式ローマ宇をよくも是認󠄁されますネ」「母子兩音󠄁の分解を認󠄁めない劃一式ローマ字は、已に音󠄁韻文字としての價値を失つたもので」いはゆる「ローマ字の面を被った假名」に過󠄁ぎないと述󠄁べ、日本式ローマ字に對する批判󠄁にはかなり激しいものがある。