山片蟠桃の『夢廼代』

山片蟠桃(子蘭)は『夢廼代』十二巻(亨和二年、一八○二年と推定される)の「地理篇」巻二の中で

西洋欧羅巴ノ人々ハ文字ハ纔ニ二十六字ノ眞艸行と寄字方數等ニテ百字バカリナレバ十歳マデニハ國字ヲ學ビツクシテ知ヲイタシ物ヲイタスカヽルコトユヘニソノ智術ノ弘キコトシルベシ

と述べてゐるが、十歳までにアルファベットを知り盡したとしても驚くに値しないが、それだけで萬事用が足りると思つてゐるとしたら驚くに値する。更に「經論篇」巻七で

天竺ハ梵字三十六宇ノヨ西洋ハアベセ二十六文字ヲ以テス。四十七字(假名)、三十六字(梵字)、二十六字(アベセ)ニ限ルトイヘドモ寄字合セ字イロイロアレバ少シハマスベケレドモ百字ニハ上ルベカラズ。西洋人ノ漢ヲ謂曰、漢人ハ一生ソノ國字ヲ知盡サズシテ死スト、左モアルベシ。シカルニコレモ亦知ラズトモスムベキ字ノ多キヲ知ラザルナリ。ソレニテモ一萬斗リハ知ラズンバアルベカラズ。

神代ノ篇ニ云ゴトク文字アレバ國ノ開クルナリ文字ナケレバ幾萬年ヲ經ルトイヘドモヒラケザルナレバ文字ハ大切ノモノナリ。シカレドモ文字ハ遣フベシ遣ハルヽコトナカレ。

日本ニ神代ノ文字アリシト云傳フレドモ全ク虚ナリ已ニ文字アランカ傳ラズンバアルベカラズ應神ノ時文字ワタリシヲ始トス萬葉集ノ假字ハミナ漢字ヲカリ用ヒタルナリソノ字音甚ダヨク正クシテ外字ヲ用ヒズ神代卷舊事記ハヨホド違ヒアルナリ後世平假名片假名アリテ國音ヲ以テ書ニハコトニ便ナリ日本モ漢字ナクシテカナ斗ナラバ大キニヨカルベシ。

と述べてをり、消極的ではあるが假名國字論と見てよいであらう。漢字ナクシテを漢字を廢して假名だけにせよと解釋するよりも、漢字といふものがなくて、假名ばかりならば便利であるのに、といふ願望の意味に解釋する方が自然であるやうに思はれる。


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