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五-六 田丸卓郞の『ローマ字國字論』

 大正三年十月󠄁田丸卓郞の『ローマ字國字論』が刊行された。同書は大正十一年に一部改訂、昭和五年に大改訂が行はれてゐる。田丸は「字の讀み分け使ひ分けを知つて居ても、道󠄁德上の修養󠄁にもならず、數學理學のやうな實用上の知識の足しにもならない」「思想智識を中身とすれば、語はそれを入れてある重箱のやうなもの、字は其重箱を包󠄁む風呂敷位なものである」と、極端に文字言語を輕視してゐるが、讀み書きも出來ずに、何を以て深遠󠄁なる學問を身につけようといふのであらうか。また同一のことを表現する場合でも、言葉が違󠄂ひ文字が變れば、最早同一のものとしては受󠄁取られず、そこに質の違󠄂ひが歷然と現はれてくるのである。次󠄁いで、漢字の不都合は「書いてあることが慥には讀めない」「宛て字」「普通󠄁に使ふ立派な日本語が書けない」「讀み誤󠄁られる」「書き分けねばならない」ことにあるとしてゐるが、いづれも漢字の根本的󠄁な缺陷ではなく、ある程󠄁度の訓練と書く人の心掛けとによつて解決し得るものであり、如何ともし難い不都合なものとは思はれない。

 また田丸は、「例へば Suido を敎へるときは、Sui は、ミヅと云ふことの漢語だといつて、Suibun, Suisan, Suirai, Suihei などを說明󠄁す」れば、「國語敎育全󠄁體に於て手數が左程󠄁餘分にかゝるとは考へられない」と言ふが、Sui は「ミヅ」の意󠄁味だといふやうに一つ一つ記憶するのは容易でないが、更に意󠄁味の全󠄁く異なる「スイ」と混同するといふ大不便がある。例へば Suimin(睡眠)、Suiryo (推量)、Suisen (推薦〕などを「ミズ」に關係があると誤󠄁認󠄁する惧れがあるばかりでなく、水量、水仙、垂線など同音󠄁異義語もあるから、却って混亂を助長することにならう。更に田丸は、同音󠄁異義語の處埋の困難なことにつき「吾々は、兎に角日本語は話に差支ないやうになるべき筈のものであるから、ローマ宇で差支なくなる筈だと云ふ根本的󠄁原理に考を据ゑて居るから、うまい案が具󠄁體的󠄁に今直に出來なくても、それで我々の議論を動ずものと考へない」と述󠄁べてみるが、すべてこのやうにローマ字にすれば何とかなるだらうといふやうな甘い見通󠄁しだけで事を處理しようとしてゐる。それにしても「……なるべき筈のものであるから……差支なくなる筈だ」といふのが、ローマ宇論の根本的󠄁原理であるとは、いかにも現實を無視した傍若無人な言種である。また「耳で聞くときには語原の分る必要󠄁がなくて、目で見るときにはその必要󠄁があるといふ理窟はない」と述󠄁べてゐるが、耳で聞いて分らないからといって、目で見る場合にも分らなくすべきだといふ理窟もない。耳と目とではその機能を異にしてをり、それに同一の要󠄁求をすることは間違󠄂ひであるし、また「耳で聞くときには語原の分る必要󠄁がない」のではなくて、語原が分る方がよいのである。このやうな田丸のローマ宇國字論が日本式ローマ字論者の「バイブル」とまで言はれてゐるのは、ローマ字論の貧困を如賓に物語るものである。


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