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七-三十 高橋・實藤󠄁の意󠄁見

 三十一年六月󠄁の『中央公論』に、高橋義考は「國語改良論の『根本精神』をわらう」を發表、「私は金田一さんの根本精神、假名遣󠄁改革の根本的󠄁前󠄁提であるところの一種の合理主󠄁義、便宜主󠄁義、その言語解釋に看取せられる機械的󠄁偏󠄁向、言語道󠄁具󠄁說には全󠄁然反對である」「言語は、ある思想・觀念・內容を表現するための手段・形式となりうる」が「言語は同時に、手段でも、しかしまた目的󠄁でもなく、ほかならぬその思想・觀念・內容そのものでもあると考える」と述󠄁べ、それをフロイトの「夢判󠄁斷」中に引用分析されてゐる夢の實例を以て實證した後、「國語は國語學者の獨占物ではない。民族全󠄁體の財產である。日本語をこうすべきだ、ああすべきだというのは、殊に言語に關心を持つ國民のする仕事である。國語學者は國民がその仕事をより容易になしうるために、いわば地ならしをしてくれるべきものである。材料を提供してくれるべきものである」と說いてゐる。

 三十年十二月󠄁の『言語生活』に、さねとう・けいしゅう(實藤󠄁惠秀)は「文學者と現代かなづかい」を發表、「文字は言葉をうつす道󠄁具󠄁だと信じます」「文字は、テープ・レコーダーにくらべれば、言葉の一面しかうつし出せません」「文字よりも、ことばを正しくうつすテープ・レコーダーには、カナズカイというものはありません。發音󠄁どおりです」と、文字の生命である視覺印象を全󠄁く無視した上調󠄁子なことを言ひ、徹底した表音󠄁式假名遣󠄁を主󠄁張してゐる。また實藤󠄁は八月󠄁の『言語生活』にも「かなづかい論爭の問題點」を發表してゐるが、繰返󠄁し「文字は言語の道󠄁具󠄁でしかありません」と述󠄁べてゐるに過󠄁ぎない。

 更に三十一年九月󠄁に實藤󠄁の『日本語の純潔󠄁のために』が刊行された。本書は福田・金田一論爭を中心に、「なるべく漢字がすくなくてすむ日本語をよしとし、現代かなづかいをよしとする」立場から、漢字と假名遣󠄁とを論じたものであるが、實藤󠄁はその中で、小說家は「わたくし」も「わたし」も「あたい」も使ふが、ataiはwatasiのwとsがとれたもので、「あたい」は「わたし」の現代假名遣󠄁といふことになる、ところが、この「あたい」は平󠄁氣で使つてゐて、ihimasu(いひます)のhのとれたiimasu(いいます)の方は使ひたくないと言ふ、その譯が解らないと述󠄁べてゐるが、その非難は全󠄁く見當違󠄂ひである。「わたし」と「あたい」はその用途󠄁を異にしてをり、「あたい」を「わたし」と書いて「あたい」と讀ませるのは、別に「わたし」といふ言葉が存續してゐる以上無理なことである。それと、同一の語として意󠄁識され、同一に發音󠄁される「言ひます」と「言います」とを同一に論ずることは出來ない。


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