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八-八 吉田提案と木內提案

 昭和三十九年三月󠄁、國語審議會に對して、吉田富三委員は「國語審議會が審議する『國語』を規定し、これを公表することに就て」といふ提案を行つた。その一は「國語は、漢字假名交りを以て、その表記の正則とする。國語審議會はこの前󠄁提の下に、國語の改善を審議するものである」と規定し、これを公表すること、その二は「國語に於ける傳統尊󠄁重の具󠄁體的󠄁方策を審議すること」、その三は「小學校の漢字敎育について、石井勳氏の主󠄁張と實績とを專門的󠄁に調󠄁査硏究し、漢字敎育の方式として採󠄁用に値するものとの結論を得れば、國として採󠄁用の策を講󠄁ずること」、その四は「『現代かなづかい』は、日本語の新しい假名遣󠄁ひを創造󠄁することを企圖したものか、歷史的󠄁假名遣󠄁ひを基準として、その不合理、不備の點等を正すことを方針とするものか、何れであるかを明󠄁らかにすること」といふもので、戰後の假名文字化󠄁、ローマ字化󠄁を目指した國語改革に根本的󠄁檢討を求める提案であつた。言はば、國語審議會に突きつけた踏繪であつた。當然のことながら、國語審議會はこの提案を無視しようとしたが、その一は、戰後の國語改革の再檢討を求めた中村梅吉文相の第八期󠄁國語審議會への諮󠄁問において公認󠄁され、ここで國語問題の潮󠄀流の方向が明󠄁かに變つたのである。

 右の吉田提案に次󠄁いで、四十二年七月󠄁、第八期󠄁國語審議會に木內信胤委員から「戰後の國語施策の根本理念を再吟味するための提案」が出された。この木內提案は六項目から成󠄁るが、その一は「國語表記を簡素化󠄁したいという理想は一應認󠄁めるものとして、その理想を訓令・吿示という手段で實現しようとしたのは、簡素化󠄁達󠄁成󠄁のためにも誤󠄁りであつたのではないか」、その二は「漢字を制限するということは、義務敎育の場においてならば、『一應の基準』として是認󠄁してよいと思われるが、それを他の分野に擴大することは、その方法如何に拘らず、おかしいのではないか」といふものであつた。この提案も正式には採󠄁擇されなかつたが、國語問題審議會に方向轉換を促す切掛けになつたと言へよう。

 昭和三十九年四月󠄁の『中央公論』は飯澤匡、大宅壯一、高木健夫、三木鷄郞による座談會を揭載してゐる。注󠄁目される發言として、高木の「谷崎さんのものなんか、古典だからね。……古典の引用は原文のままですね。……古典は、そういうふうにしておかんと、日本語の筋道󠄁がたたない」、大宅の「漢字を使わないと表現に力が出ない」「いままで象形文字にとらわれたから、耳の發達󠄁がおくれたんだな。目だけは發達󠄁したけどね」、飯澤の「いままでは縱に書くようにできてる字でしょう。これを橫書きにするのは無理ですよ」「關西辯の方が上等な言葉ですね」、三木の「この間ドイツへ行って、車を運󠄁轉して一番困ったのは、行先の標識があるでしょう。あれがドイツ語だと長いんだ。とても讀み切れない」「それで、表意󠄁文字の威力をつくづく感じたわけです」などが擧げられる。


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