八-五十一 筧泰彥の『日本語と日本人の發想』
昭和五十九年三月󠄁に出版された筧泰彥の『日本語と日本人の發想』は、東西の比較探求と古代日本語の分析を通󠄁じて日本人の發想の原點を探つたものである。筧は「『モノ』が人や心の外にある目に見たりすることのできる存在や事象を指すのに對して、『コト』は目には見たりできないが、人や人の心と離れない觀念的󠄁な存在を意󠄁味してゐます」「言葉は單なるコンミュニケーションの道󠄁具󠄁だけの『モノ』ではなく、意󠄁味や理法や事實や心をして『マコト』たらしめ、人をして『ミコト』たらしめるに缺くことのできない靈妙な働きを擔つてゐる『コト』であることがわかります」と述󠄁べ、大學生の國語力が低下した原因の一つは「戰後日本政府が權力を背景にして行つた國語政策」であり、「漢字の使用を制限したことによつて、時代を擔ふべき國民の筋道󠄁の通󠄁つた精確な分析的󠄁思考力を大きく低下させ、また若い世代に日本文化󠄁の傳統の斷絕を惹起󠄁させ、引いては世代間又師弟間の精神的󠄁斷絕による相互信賴の地盤喪失を將來させたことは、長年大學敎育に携はつて來た私の經驗からして疑ふ餘地がありません」と漢字制限の非を述󠄁べ、更に「あとがき」で「文化󠄁の繼承といふことを忘󠄁れて、目先の便利だけを考へた發音󠄁主󠄁義の新假名遣󠄁ひを用ゐてゐますが、これは古くから續いて來た日本語と現代の日本語との間を斷絕させ、日本の文化󠄁を貧弱󠄁化󠄁せしめるものであります。私は敎育上では、假名遣󠄁ひのみならず日本語のすべてに亙つて、古今東西を貫く原則的󠄁なものを敎へることが最も大切だと考へます」と本書を歷史的󠄁假名遣󠄁で出版した理由を說明󠄁してゐる。