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九-八 皇室報道󠄁と敬語

 平󠄁成󠄁六年二月󠄁、天皇、皇后兩陛下は小笠原諸島を訪問された。二月󠄁十三日の讀賣新聞は「降り立たれた、向かわれた、祈られた、上陸された」のやうに、相變らず尊󠄁敬の助動詞「れる、られる」だけで押し通󠄁してゐる。簡便ではあるが、敬意󠄁は低い。「お祈りになつた、上陸なさつた」のやうに、もう少し表現に變化󠄁を持たせる工夫があつてもいいのではないか。

 讀賣新聞は曲りなりにも兩陛下に對して尊󠄁敬の意󠄁を表さうとしてゐるが、驚くべきことに、朝󠄁日新聞と每日新聞は全󠄁く敬語表現を用ゐてゐない。朝󠄁日が「父󠄁島に着いた、ひしゃくで水を慰靈碑にかけた」と報ずれば、每日は「水と花󠄁をささげた、感想を述󠄁べた」と書いてゐる。平󠄁成󠄁十六年三月󠄁十八日の朝󠄁日夕刊に、秋篠宮「ご夫妻も出席した」「天皇、皇后兩陛下は……三笠宮妃百合子さまとともに出席した。……と述󠄁べた」とある。朝󠄁日新聞は明󠄁かに意󠄁識して敬語表現を避󠄁けてをり、これは由々しい大問題である。我々が日常生活において、上司や先輩や客に對してはもとより、行きずりの人に對してさへ用ゐる敬語を「日本國の象徵であり日本國民統合の象徵である」天皇、皇后兩陛下に用ゐないとはどういふことか。尊󠄁敬に値しないといふことか。それとも、尊󠄁敬はするが、形に表さないだけなのか。しかし、形に表さなければ尊󠄁敬の氣持は傳はらない。マスコミが好んで使ふ「開かれた皇室」とは、皇室を一般國民の水準に引き下げることなのか。さうだとすれば、皇室の存在意󠄁義は喪はれ、やがて自然消󠄁滅することにならうが、兩紙の眞の狙ひはそこにあるのだらうか。昭和五十七年發行の『朝󠄁日新聞の用語の手びき』には「戰前󠄁、皇室だけで使われていた特別な敬語はやめ、一般敬語のなかの最上のものを用いる」とあるのに、最低の敬語すら用ゐないとは不快である。憤慨に耐へない。いつどのやうな理由で方針を變更したのか、釋然としない。


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