九-十二 井上の『日本語よどこへ行く』
平󠄁成󠄁十一年六月󠄁、井上ひさしの講󠄁演とシンポジウムを收錄した『日本語よどこへ行く』が出版された。第一部は「固守と變容」といふ井上の講󠄁演である。井上は昭和八年當時批判󠄁された「超大作」「インチキ」「パパ、ママ」或いは「疑ふ」と「探る」を合せた「うたぐる」、「だます」と「くらます」を合せた「だまくらかす」等は今日普通󠄁に使はれてゐるとして、かういふ「開かれた系」は變るが、「私たちが人間であり、人間としてこの島國に生きているかぎり、心とか、胸とか、頭とか、そういうやまとことばは生き殘っていくに違󠄂いない。たとえそれが破壞されたとしても、それがほかのことばに乘っ取られたとしても、最後に文法がある。……それはやはり容易なことでは崩󠄁れないと思います」、かういふ「閉じられた系は變らないと述󠄁べ、「それをもし讓り渡すことがあれば、そのときこそ日本語のおしまいであるというふうに考えられます」と述󠄁べてゐる。そして、齋藤󠄁茂吉の和歌を例に「こういう茂吉の和歌が、いいなと思う、日本語の音󠄁を實によく使って、日本語ってきれいだなと思えるあいだは、日本語は大丈夫だと思います」と日本語の將來を樂觀してゐるが、昨今の日本人は「いいな」「きれいだな」といふ感覺を失ひつつあるのではないか。
第二部は壽岳章子、井上史雄、天野佑吉、俵萬智、增井元、小池保による「二一世紀の日本語」といふシンポジウムである。壽岳は、今日の言葉の亂れは「大したことないわいなあ」と客觀的󠄁に思ふ一方、「もうちょっとなんとかならんかいなあ」と主󠄁觀的󠄁に思つたり、困つてゐると言ふ。「マジキレ、ハブる、タクる、オナチュー」などの若者言葉について、「若者同士になると、會話は、みんなとっても樂しそうですよね。高校生にしても仲間內のことばを樂しんで使えるっていうのは、一方ですごく日本語を豐かにしているのではないかなというふうに感じました」といふ俵の發言に代表されるやうに、參加者全󠄁員が物解りのいい大人といつた感じを受󠄁ける。それどころか、天野は「ああいう言葉を使うようになった原因を作っているのは誰だと言つたら、それは僕ら大人ですよ」と言ふ。子弟の敎育をしつかりしなかつた大人に責任なしとはしないが、若者は未熟で、言葉や文字を十分正しく使へないのだから、間違󠄂ひは正し、失禮な言ひ方、下品な言ひ方はやめなさいと言ふべきである。古いとか頑固とか言はれるのを惧れ、默つてゐる大人、若者に媚を賣る大人が多過󠄁ぎる。
敬語について、俵は「これは日本語のすごく豐かな部分だと思いますので、ぜひ身に付けて欲しいなと思います」、小池は「相手に對することばの上での『もてなし』です。それを『わざわざ』するところに『敬語の心』の眞骨頂があるのではないでしょうか」と言ふ。敬語には言葉を通󠄁して行はれる人と人との付合ひ、心と心との觸合ひを滑らかにする潤滑油の働きがある。更に俵は日本語を學ぶ外國人に關聯して、助數詞を取上げ「日本語はこういうところがすごく豐かで、いろんな表現があるということを勉强してもらうことによって、日本の文化󠄁というものが傳わると思うので、その傳え方や、學習󠄁の仕方というのは大いに硏究されるべきだと思うんですけれど、勉强する人に合せて日本語が何か讓るということは全󠄁然ないんじゃないかなと感じています」と述󠄁べてゐる。