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九-十七 ピーター・フランクルの『美しくて面白い日本語』

 平󠄁成󠄁十四年四月󠄁、ハンガリー生れの數學者で大道󠄁藝人のピーター・フランクルの『美しくて面白い日本語』が出版された。フランクルは「日本語は本當に不思議な言語だ」「澤山の言葉に接して、日本語は非常に豐かな言語だと感動した」「漢字は一つの單語として理解しやすく、文章を理解する上での目安にもなる」「舊假名遣󠄁いや舊漢字で書かれてあったとしても、それは十頁、二十頁と讀み進󠄁めて行けば馴れてしまうものだ」「漢字の部首で意󠄁味が繫がってくるというのも、僕にとっては不思議で面白く感じられる」「日本語というのは大變面白いし、表現力が豐かな言語だ」「日本語はまだまだ奧が深い」「イギリス・ドイツ・フランスなどでも、こんな美しい表現は聞いたことがない」「僕は日本語の響きが好きだから、美しい響きのない現在のカタカナ語の蔓延󠄁を非常に寂しく思っている」と、至るところに「美しい、面白い、好きだ、豐かだ、感動した」と書いてゐる。日本人は自國語について美しいとか、面白いとか、樂しいとか、さうした感覺をどうして失つてしまつたのか。漢字が好きだ、日本語が好きだ、好きで好きで堪らないといふ日本人がどうして育たないのか。敎育者の責任は重いと言へよう。

 ピーター・フランクルは「日本の言葉というものは、その精神性を含めて、ほとんどすべての日本文化󠄁の基礎になっている。文化󠄁の大本である日本語の良さ、面白さ、樂しさ、複雜さなどを多面的󠄁に眺めて、それを改めて學んでみてはどうだろう。日本人が自分の國の言葉を眞劍に學ぶことによって、日本文化󠄁が守られ、その文化󠄁が未來へ向けて繼承されてゆくことになる。自分たちの文化󠄁を大切にすることこそ、日本人の誇りになるのである」と述󠄁べ、更に「今の日本の歌謠曲はカタカナ語だらけ。畫面に表示される歌詞は英語だらけ。これがとても殘念でならない」「日本の經濟が惡くなったとしても、日本が素晴しい國であることに違󠄂いはない。世界に誇れる文化󠄁や歷史、そして言葉がある」と言ふ。どうしてかうした言葉が日本の學者や文化󠄁人やジャーナリストの口から聞かれないのか。

 日本新聞協會は平󠄁成󠄁十三年に常用漢字以外の三十九字の使用を決めたが、これでは不十分だとして、朝󠄁日新聞は平󠄁成󠄁十四年四月󠄁一日から、獨自に六十六字を選󠄁定し、常用漢字と合せて二千十一字の漢字を使用することに決めた。常用漢字を絕對とせず、獨自の姿󠄁勢を打出したことは好ましいが、これではまだ不十分である。「奈、梨、鹿」などは入つたが、大阪の「阪」、埼玉の「埼」などはない。これで熟語の一部を假名で書く不體裁は少くなるといふが、平󠄁成󠄁十六年三月󠄁四日の夕刊の見出しに、「米農務省、記錄改ざん疑惑」とあるやうに、依然として混ぜ書きが見られる。混ぜ書きを皆無にするには、六十六字などとけちなことを言はず、漢字は自由に使ひ、難しいと思ふものに振假名をつければいいではないか。

 平󠄁成󠄁十四年五月󠄁に出版された萩野貞樹の『美しい日本語』は先の齋藤󠄁孝の『聲に出して讀みたい日本語』『理想の國語敎科書』と同種のもので、萩野は「はじめに」で「何千年さかのぼるか知れないはるかな古代から、私たちは言葉を强く意󠄁識し、美しく、またときにはたわぶれて、またいかめしく、言葉をととのえて歌いあげてきた」「我が國の詩歌は何萬年もの歷史を有する。千數百年前󠄁に記錄したのは、たまたま文字を知つたからにすぎない」「日本人は文字を持った。そして記錄した。そうなると文字を通󠄁しても詩歌は廣く共通󠄁の財產となる。それから後が千五百年なのである。當然に徹底的󠄁に洗煉されてきた。その時代は少くとも、六七十年ほどまえまではつづいた。そのあとは蕪雜となる一方である。私たちはなるべくなら古い日本語に親しみ、古い日本語を身につけた人たちの詩文に觸れないと、萬年の洗煉を失う」と述󠄁べてゐる。


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