三-二十五 坪󠄁內逍遙の立場
同じく明󠄁治二十八年四、五月󠄁に、同じやうな立場から、坪󠄁內逍遙は早稻田文學記者の名で『早稻田文學』に「新文壇の二大問題」を書いてゐる。ここに二大問題とは、「曰はく、將來の國語法は如何にすべき、曰はく將來の日用文字は今日のまゝにて不利なしや、多少改正を加ふるか、若しは新文字を創作するの必要󠄁なきか、是なり」といふことである。
坪󠄁內は、先づ新文法論について述󠄁べ、井上哲次󠄁郞と嘉納󠄁治五郞の新國字論を紹介した後、音󠄁字の便益として十ケ條を擧げ、更に「非音󠄁字論」において、國字の得失は、實用上、國語學上の關係、國文學に及󠄁󠄁ぼす影響、國俗の過󠄁去に對する關係の四つの觀點から考察すべきであるとして
*「意󠄁字、殊に支那󠄁の意󠄁字は、學ぶに勞大きは爭ふべからざれど、一たび得たる後に於ては、認󠄁むるに易きことも爭ふべからず」「學ぶの便と讀むの不便と、其の得失如何」
と、第一の疑問を提出してゐる。次󠄁いで、漢語のみならず、在來の日本語にも同音󠄁意󠄁義語が頗る多いことを指摘し、それを音󠄁字で表記して「錯誤󠄁の恐󠄁れなきか」といふ風にいくつかの疑問を提出してゐる。
更に歐米において綴字を發音󠄁式に變更できない理由を說明󠄁し
*その重なる故障は語原に關する利害󠄂なり。例へばEuropeの發音󠄁、俗にはUrupなるに、之れを六音󠄁字に長く綴るは極めて無用なることに似たれどUrupと改むると同時に、Europeといふ語が二箇の希臘文字、「廣」と「面」とより來れるの史は亡󠄁滅すべし、
*我が假名遣󠄁と語原との關係は暫く措くも、從來主󠄁(むね)と目によりて記せられたる支那󠄁文字が、俄に一變して主󠄁音󠄁綴字に物せられん時、其の結果如何あるべき。支那󠄁語は同聲に富みたるだけに、其の語原は全󠄁く探りがたきものとならん。
と論じ、更に詩趣の失はれることは必定で、後の靑年詩人をして「二者の相異のウンデイなる、天と地との相異なるが如し」などといふ、「架上に架を架する奇句を物せしむるに至ることあらん」と批判󠄁してゐる。
語原との關係については、今まであまり論じられなかつた面であるが、語原を知ることは、その言葉の記憶を容易にし、理解を深め、より正確な使用法を身につけることになる。言葉は一つ一つばらばらに存在してゐるわけではなく、かなり組織的󠄁に相互に聯關を有するものである。それ故に、表音󠄁文字を使用してゐる歐米においてすら、綴字を表音󠄁式に改めることは容易にはなし得ないのである。一度表音󠄁式に改めたならば、その語原意󠄁識が崩󠄁れ、相互關係を有する言葉の組織が破壞され、言葉の理解を困難にしてしまふばかりでなく、元來關係のない言葉が關係を有するもののやうに誤󠄁解され、文字言語の機能が痲痺することは想像に難くない。